久々のブログ更新です。最近忙しく、今回はたまたま近くに行く機会があったのでそのついでに携帯で写真をとっただけの手抜きブログです。

 和徳城跡。築城年代不明。藤崎城主安東氏庶流の安倍氏によって築いたとされる。南部氏津軽侵攻の際この和徳城も攻められる。城主安倍伊予守もよく防いだが家臣の小山内讃岐守の内通により落城。その後その小山内氏が南部の家臣として城主となる。その後満春、讃岐(祖父と同じ名前?)と代を重ねるが、津軽為信の石川城攻めのあと攻められ落城。父子は戦死。その後津軽為信の家臣森岡金吾信元が城主となる。


一弘前人の思いつき☆


一弘前人の思いつき☆
堀跡か?水路のようになっている



一弘前人の思いつき☆
境内



一弘前人の思いつき☆
和徳城の場所については諸説あるのだが土淵側から見たこの様子で、和徳城趾はこことみて間違いないだろうと個人的に決め付けている。

青森県旧市浦村(十三湖湖畔)にあるしーうらんどに行く機会があったので、帰り際福島城に立ち寄ってみました。さす栄華をきわめた安東氏の居城です。スケールが大きい。さすがに少し寄っただけではすべてを見られませんが、ちょっとさわりだけ。後に必ず時間をとって訪れたいと思います。

 福島城は内堀、外堀があり内郭と外郭からなっています。大体二重丸ののような形をしていますね。天然の地形を利用しているもののかなり面積は大きいです。


写真は最近作ったと思われる門と内郭周囲の内堀、そして掲示板、内郭の内部です。


一弘前人の思いつき☆


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小沢館(こざわたて)。弘前市小沢にも中世の城があった。土淵川とアップルロードが交差するあたりにある。


和徳城主小山内氏に仕えていた猪股市郎左衛門の居館跡。ご存知のとおり和徳城は津軽為信に石川城落城後すぐに攻められ落城したので、その後津軽氏家臣森岡金吾信元が使用した。その森岡信元も後にこの城の近くの久渡寺で津軽為信に暗殺されたとも言われている。

墓地公園前のアップルロードからみると土淵川に張り出している城跡がはっきりわかる。
一弘前人の思いつき☆


城の東側は土淵川が蛇行し段差があり自然の防御となっている。サイクリングロードが整備されているので当時のままの姿ではないと思うが面影は残している。
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城の西側から北側かけて堀跡と思われる小川が流れており、それに沿って土塁も確認できる。
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アップルロード側からリンゴ畑となっている城内部にお邪魔させてもらった。平らな面が数面ありきれいに段差がある。曲輪跡なのか、農業用に後で整備された段差なのかは判別できない。
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一番北東の一番高くて広い部分のここが主郭だったのか??バックに写っている木は先ほどの土塁にはえていた木である。
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http://www.mapion.co.jp/m/40.5596838888889_140.446015_8/

 小栗山館(こぐりやまたて)。築城主、年代不明。南北朝時代に倉光孫三郎という武将が拠っていた。南朝方であったため北朝方の曾我氏に数回攻められるも撃退している。その後歴史には登場せず、津軽為信の石川城攻めの際、小栗山館主で野武士の首領である小栗山左京が参加している。小栗山は後に津軽氏家臣森岡信元の所領になると記述があるが、小栗山館についての記述はない。


小栗山沢辺のなだらかな丘陵地帯にあった。下の写真にあるリンゴ畑の細い道を自転車で登って行った。

下記ブログによると城の遺構は全く残ってないとのこと。
一弘前人の思いつき☆


かなり登った位置から弘前市市街地を眺望できる。かなりの丘陵地帯であることがおわかりいただけると思う。

この地形をフルに活用して平賀方面から攻めてきた曾我氏を撃退したと想像する。
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下記ブログ地図に記された地点はこの辺と思われる。畑になっており遺構はやはり見当たらない。
一弘前人の思いつき☆

西には大和沢川がながれ断崖となっている。こちらから攻め入ることはほとんど不可能か。
一弘前人の思いつき☆


http://www.hb.pei.jp/shiro/aomori/

蓬莱橋下からの写真。いろんな人がブログにアップしてますので特に私からいうことはないかな。

リンゴが売れて絶好調の昭和40年代くらいの象徴です。


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小さい頃はちょっと怖いイメージがあった路地裏。いまではノスタルジックで趣もあり、ちょっとおしゃれな小路です。


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 最勝院五重塔。弘前人であれば誰でも知っている。にわか歴史ファンの私が言うまでもないが最勝院の歴史のポイントだけまとめさせて頂く。

 最初は堀越城下にあったそうである。弘前城築城にともない城の鬼門においた弘前八幡宮のある田町に移転、八幡宮の別当寺であった。また、弘前藩領内の寺院を取り仕切る立場にあった。

 前ブログでのべた明治政府による神仏分離令により八幡宮周囲にあった最勝院以外の寺(11つ)は廃寺となり、それらの檀家を引き連れて現在の地に移転する。そこにあった大円寺は大鰐に移転した。

 現在でも大円寺の呼び名は残っている。未だに大円寺の宵宮と言い、最勝院の宵宮と呼ぶ人より多い。バスの停留所も昭和50年代前半まで大円寺であった。さすがに最勝院からクレームがついたらしく大円寺という停留所はなくなった。江戸時代のくせがまだ抜けていないのである。最勝院のかたにはすこし悪い気がするが、大円寺がそこにあったというこの名残ぐらいはぜひ残って欲しい。


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説明するまでもない五重塔である。4代藩主信政のとき完成。津軽統一戦の犠牲者敵味方を問わず弔うために建てられたが、碇ヶ関を越えて桝形方面つまり東南の方角から敵が攻めてきた際の見張り塔の役目もあるのか?東南方面は堤、御岳神社、桝形と防御を厳重にしているように思える。


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大円寺の時代からある通称六角堂


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弘前が誇る大工堀江佐吉の碑


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聖徳太子を祭った太子堂。建物の古さからみて大円寺の時代からあるのかな???


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 弘前市銅屋町にある八坂神社 。ここは前ブログでのべたとおり中世の時代は出間館という城、江戸時代は大円寺、明治時代からは最勝院と八坂神社がここにある。

 八坂神社の由来はその大円寺にあった牛頭大王(ごずだいおう)だそうである。仏教と地元信仰、神道などがミックスすることを神仏習合と言うらしい。牛頭大王はその一例のようである。明治政府はそういったものを切り離そうとし、神仏分離令を出した。年代も合致することから明治政府の意向で八坂神社と改称したのであろう。

 また、檀家制度による寺の腐敗により民衆の反発がつよく廃仏毀釈(廃物運動)がおきた地域もあったらしい。地域によっては僧が神職に転職したり、廃寺、破壊などが起こったそうだ。弘前でそういった激しい廃仏運動が起こったかどうかわからないが、八幡宮の別当寺として八幡町にあった最勝院がここに移り、大円寺が大鰐に移ったのにこの辺のことが影響しているのはまちがいないだろう。この時期に弘前高校周辺の寺や八幡宮周囲の寺が消えているのも廃仏毀釈の影響かもしれない。お寺にとってこの時期は苦難の時期であっただろう。


一弘前人の思いつき☆
 こういった江戸から明治への変化をあらわしているのがこの八坂神社である。御本社あの有名な京都の八坂神社だそうである。明治に建てられた本殿は火事で焼けており、現在の本殿は戦後すぐにたてられたものとのこと。石柱や、御神馬は明治からのものであろう。


一弘前人の思いつき☆
神社本殿よりも裏や脇にある石碑がおもしろい。大正時代はなくなった恩師の石碑を建てるのが流行していたのであろうか?また魚鳥供養塔というのもある。


一弘前人の思いつき☆

一弘前人の思いつき☆


wiki 廃仏毀釈) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88

wiki 神仏習合) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88

wiki 神仏分離) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2