クックちゃん、茨城県阿見町の予科練平和記念館へ。

 

 

クックちゃん「…一言で言いづらい。

戦争への恐怖をただただ植え付けるだけの残酷な写真や絵画なんか全く無くて、逆に過去の戦争を美化する展示も無い。イデオロギー色の全くない、とてもクリーンで知的な施設。

場所も慎ましやかで、観光アピールも全くしてないから、この近隣の市町村ですら、知らない人の方が多い記念館かも。

淡々と、事実を解りやすく時系列に展示していて、展示の場所によっては、笑顔にさえなれる。

だけど、出てきた時には、皆、言葉を失くしてる、そんな記念館。

兎に角、考えさせられる場所」

 

ラーク「Yuniはここに来たことあるの?」
 
クックちゃん「何度も来てるってさ。
立派な記念館が出来る前の、武器学校内の小さな資料室だった時から、行ってたって」

クックちゃん「展示館内部では、写真撮影は一切出来ないんだ。
情報量が多くて、頭に全部は入れられなかったし、午後から行って丁寧に見てたら、閉館時間になっちゃって、全部は見切れなかったの。
だから、感じたことだけ淡々と話すね」

ラーク「まず、予科練って何なんだい?」
 
クックちゃん「海軍のパイロットの育成所なんだ。健康で、文武に秀でたエリートしか入れない場所だよ。
そして、第二次世界大戦中、神風特攻隊になった少年たちが育成され、短い青春期を過ごした場所。
神風特攻隊と聞いて、全くピンとこない人は、まずいないよね」
 
ラーク「………」

クックちゃん「これは屋外展示物だから、写真撮っていいやつ。…零戦の実物大模型」

ラーク「特攻隊員はみんな、これに乗って突撃してったんだね」
 
クックちゃん「みんなじゃないよ。
この零戦は別名『桜花』っていうの。でもね、特攻隊はこれ以外にも乗ってたんだよ。
人間魚雷『回天』。炸薬を積んで敵艦に体当たりする木製ボート『震洋』。潜水服を着て海に潜って、敵艦に直接機雷を触れさせる『伏龍』。伏龍は考案のみで、確か、実践はされなかったんだったかな。
…ただ、共通してるのは、どれも出撃したら最後、生きては戻れないってこと」

ラーク「………」
 
クックちゃん「因みに、日本に空軍は存在したことがないの。
予科練は、海軍の飛行部隊の養成所だったんだよ。航空自衛隊は戦後出来たんだ」
 
ラーク「へえ…確かに『土浦海軍航空隊』って言うんだな。空軍じゃなくて」
 
予科練平和記念館は、予科練生の憧れの制服「七つボタン」に因み、施設全体が、入隊から特攻に到るまでの七つの展示室に分けられて、ストーリー設定されています。
七つのボタンは、世界の七つの海(七太洋)を表していました。
クックちゃん「僕、初めて知ったんだけど、特攻隊って、戦況悪化と共に増えてったわけじゃないんだね。
ミッドウェー海戦に日本が敗れて、マリアナ諸島がアメリカの手に渡って、本土が爆撃に晒され始めてから、次々に、知覧とか台湾とか、フィリピンのレイテ島とかから、飛び立ってって…
だから、一番酷い年には、その学年の9割近くが亡くなったんだけど…」
 
ラーク「9割…」

クックちゃん「うん。戦況が酷くなってゆくにつれて、まだ充分な飛行訓練を積んでいない子たちも、どんどん投入されてさ、酷いものだったの。訓練が足りてないから、出撃しても敵艦に当たらず、ただ海に落ちて虚しく自爆してく子たちも、多かったんだ。予科練が存在していた15年の間に入隊した、約24万人の少年のうち、終戦までに約1万9000人が戦死したの。
あと、回天とか震洋へは、飛行訓練が足らなかった子たちが乗ったの。飛行機乗りにはなれなかったけど、パイロットとしての誇りを持って、皆、飛行服を着て出撃してったんだって。
でも、もう終戦間近には、特攻隊は使われなくなってて、それ以降の予科練生たちは、出撃待ち状態のままで終戦を迎えて、戦後を生き延びられたんだ。…何故だと思う?」
 
ラーク「え、分からない。どうして?」
 
クックちゃん「その頃になると、特攻隊の乗り物を作る資源すら、枯渇してたから。
材料も燃料も無くなっちゃって、工場も破壊されて、飛行機も魚雷も、もう日本には作る力がなかったの」
 
ラーク「アメリカには、有り余る物資と資源があったけど、それのない日本は、もう零戦を作る材料も金も、武器弾薬も、底を尽きてたんだね。
道理で、お寺の鐘や鍋や釜、鉄屑まで徴収してたわけだ」
 
クックちゃん「そうなんだって。
経済も封鎖されてるから、海外からも何も入って来ないし」
 クックちゃん「米軍による阿見の大空襲は、1945年6月10日に起きたの。
250kg爆弾を積んだB29が、空が真っ黒になるほどの大編成を組んで飛んで来て、予科練習生は281人、周辺の住民も亡くなった」
 
ラーク「あ、茨城にも…ってか、この辺にも、空襲ってあったんだ」
クックちゃん「何度もあったよ。
規模としては、この6月10日の空襲が、最大だったんだけど。土浦海軍航空隊と予科練があるんだから、阿見~土浦周辺が狙われないわけないよね。空襲って、民間人を殺す為じゃなくて、軍事的な重要地を潰して、相手の戦力を削ぐ為に行われるんだもの。
本来、小学校や保育園や病院がある街中を爆撃するのは、アウトなはずなんだよ」

 

ラーク「そりゃそうだよね…。当時も今も、やってるとこあるけど…」

 

クックちゃん「予科練記念館の傍は今、公園になってて、子供たちが元気いっぱい駆け回ってた。

でも、1945年6月10日には、ここで多くの少年たちが、酷い状態で亡くなってたんだね。

この辺一帯、今は寂れた感じするけど、昔は霞ケ浦が海軍揺籃の地になったお陰で、海軍の街として栄えてたの。

予科練の少年たちは、この近隣の農家なんかに集まって『倶楽部』を作って、土日をそこで仲良い同士でワイワイ過ごして、親元離れた寂しさを紛らわしていたらしい。

近所の方々も、皆、全国各地から来て厳しい訓練を受けている少年たちに対して、素朴で親切で、彼らの心の支えになっていたみたいだよ」

ラーク「この辺、多くが農家だから、干し柿やお汁粉なんかを作って、少年たちにふるまってやったり、予科練の子たちの方も、畑仕事を時々手伝ってあげたり、してたのかな」

 

クックちゃん「うん、想像がつくよね。

酒保や食堂も沢山並んでて、運動会とか祭りとか、地元の人達も参加出来るような楽しいイベントも、予科練主催で開催されてさ。予科練生の方も、後に理由を書くけど、農家出身の子が多かったから、農作業は手馴れたものだっただろうし。

今だって、霞ケ浦航空自衛隊の武器学校がここにあるけど、自衛隊員や学生たちと地域住民の方々は、とても仲が良いんだ。

Yuniが以前、近所にあったハンドメイドのお店に行ったら、そこの小母さんたちが『武器学校の学生さん達が、よく来て買ってってくれるんだけど、みんな驚くほど真面目で良い子たちだよ。手作りのエプロンやティッシュボックスを熱心に選んでるから、それ買ってどうするのって訊いたら、もうすぐ里帰りだから、お母さんへのお土産にするんだって言うのよ。今時そんな子、なかなかないでしょ。可愛いよねぇ』って話してた、って言ってた。

Yuniも、陸上自衛隊の敷地内での国際交流BBQ花見会なんかに参加してたらしいし、秋田から転勤して来た自衛隊のご家庭と仲良くなって、家族寮におよばれして、きりたんぽを初めてご馳走になったって話もしてたよ」

 

分隊長に贈る為に、野で摘んできた花を活ける予科練生たち。面白そうに窓からのぞいてる坊主頭も可愛い。

ラーク「6月10日の大空襲で亡くなったのは、そういう人たちだったんだね」

 

クックちゃん「そう。予科練の少年や教官たちを中心に、そういう、彼らの心の支えになっていた民間人も、亡くなったの。

手足が千切れたり、お尻がそのままもぎれたりした、酷い重傷者が、近くの病院に次々運ばれて来て、看護士さんを絶句させたり、また予科練生の少年たちは皆、仲間たちの頭のない遺体や頭だけの遺体を戸板に乗せて運びながら、わあわあ泣いてたって。

友達の頭から脳みそが飛び出しちゃって、戻せば何とかなりそうな気がして、必死で手で掬って頭蓋に戻してた、なんていう、悪夢のような元予科練生の証言もある」

 

ラーク「………」

 

ラーク「予科練生になった子供たちっていうのは、どんな子たちだったの」

 

クックちゃん「カミカゼって言うと、ハチマキ巻いた狂った化け物みたいに描く人たちや、愚かさの象徴みたいに言う人たち、日本でも海外にでも、よくいるじゃん。あと、うるさい暴走バイクを乗り回してる迷惑な人たちが、特攻キメるぜ~!とか言ってたりするでしょ。

事実は全然違う。すっごく普通の少年たち。ただ、実は超のつくエリートなんだけど。

受験問題や教科書やノートも展示されてたけど、塾で働いてるYuniがそれ見ながら『こりゃ凄い…』って呟いてた。灘や開成、筑駒とまではいかないかもしれないけど、それに近いレベル行ってるよねって。何しろ、予科練に入るのは凄い競争率だったんだから。

因みに戦時中、英語は敵性言語って言われて、一般の学校の授業からは外されたけど、予科練ではしっかり教えてました」

 

友達に髪を刈ってもらう、甲種13期土浦空隊第31分隊、清水徹さん。ひょうきんで人気者。
大事そうに抱えてる箱は予科練生一人一人に支給される手箱で、皆、ここに家から来た手紙などをしまってたらしい。
共同生活において、小さくとも大切なプライベートスペースだったんですね。

ラーク「どうして少年たちは、予科練に入ろうと思ったのかな」

 

クックちゃん「予科練が出来た頃には、まだ、戦争なんて全然、具体的じゃなかったんだよ。アメリカとも不仲じゃなかったし。

ドイツからツェッペリンが土浦に来て、リンドバーグも来日して、多くの少年たちが飛行機乗りに憧れたんだよね。自分も『海の荒鷲』を目指したいって。

そう言えば、最初のうちは『神風』の読みは『カミカゼ』じゃなく『シンプウ』でした」

 

ラーク「そっか、元々は、海軍のパイロット志願の少年たちだったんだ」

クックちゃん「理由はそれだけじゃないよ。一番多い理由は、貧しい家の子でも、公費で高等教育が受けられるから。

だから、第一期生の志願理由を見るとね『阿見の農家出身、水害に遭って、一年かけて作った農作物が一日で全部ダメになった。農家なんかやってられるかと思って、勉強してパイロットになると決めた』『リンドバーグが来日し、飛行機乗りに憧れた。母は反対したが、父は一人くらい家から軍人が出るのも良かろうと、許してくれた』『うちはきょうだいが大勢いて、大学進学など夢のまた夢。でも予科練生になれば、公費で勉強を続けられる』…」

 

ラーク「えっ。思ってた以上に普通だった…

…っていうより、僕自身も農家の子で、奨学金で大学進学も留学もしたから、めちゃめちゃよく解る…」

大福を運んでいるところ。どんな時代も、甘いおやつは子供たちの味方だよね。

 クックちゃん「…でしょ?

どの動機見ても、国家の為とかじゃなくて、家族の為や自分の為なの。普通に自由で民主主義的な理由だよね。

予科練は、家族に迷惑が掛からないように、公費で学んで稼げるようになりたい少年たちの、貴重な受け皿だったんだ。

受験は何日もかけて行われて、落ちた子はその都度、家に帰されるの。脱落した子が泣き泣き帰ってく姿を見ると可哀想で辛い、でも僕は落ちないよう頑張って最後まで残りますっていう、母親宛ての受験生の手紙も残ってるし、台湾からの子が『自分もお国の役に立ちたいのに、異国の子だから、飛行機乗りとして適切だと思って貰えないとは不公平で悲しい』という心情を詠った歌も残ってる」

ラーク「台湾の…。
それは、属州出身の子を日本人と対等には扱えないという、差別からだったのかな。

それとも、配慮?…海外出身の子を、母国ではない日本の為には、無下に戦わせられないっていう…」

 

クックちゃん「Yuni、お父さんが湾生で、台湾人の親友もいるでしょ。暫く考え込んでたけど『両方あると思う』って。

確かに海外出身の予科練生たちは、本名を使えずに日本語名を名乗らされたし、どんなに頑張っても『丙種』扱いなんだよ。そこは、差別があったと言われても、仕方ないかもね。

ただ、比較して良いのか迷うけど…ベトナム戦争の時、アメリカは、成績の悪い順から兵士として前線に送ってって、その結果、多くの戦死者が、人種差別のせいで高等教育から締め出されてた有色人種(主に黒人)や移民で、アメリカの特権階級である、戦争を始めたイギリス系白人(WASP=ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)は、ほぼ無傷だったの。

対し、第二次世界大戦中の日本は、特攻隊員の殆どが日本人、それも頭脳にも肉体にも専門技能を叩き込まれたエリートたちだったんだ。でも、台湾や朝鮮半島から志願して選ばれた優秀な少年たちも、特別枠として採用されていたの。

Yuniは以前、この記念館で開催された講演会で、元特攻の順番待ちだった予科練生の方から、直接お話を伺ったことがあるんだけど、その方は『海外から来た予科練生にも、特攻に志願した方々がおられます。彼らの御恩は本当に忘れてはいけません。我々日本人の予科練生は、故郷の為に特攻に志願しましたが、彼らは本来母国ではない日本の為に、命を捧げて下さったのです』って、強調して仰有ってたって。

本人たちが幾ら希望してくれてたとしても、海外出身の予科練生を、なるべくなら日本の国土を守る為の戦いの巻き添えにしたくない=彼らは本質はやはり異国の民なんだという意識は失わないようにしよう、って思いが、少なからず、日本にはあったんだと思うよ。

…そういう気持ち、ベトナム戦争の時のアメリカには、少しでもあったのかな」

 

ラーク「………」

 

映画「フォレスト・ガンブ」と、手塚治虫「空気の底」より「ジョーを訪ねた男」。どちらもベトナム戦争の最前線のアメリカ軍のワンシーン。

 
壁面の言葉を記した劉連輝さんご本人と、奥様。(予科練記念館HPより)
特別丙種予科練習生とは、台湾と朝鮮半島から志願者を募り、選抜された予科練生。優秀な少年たち100人ほどが選ばれた。
彼らは最初、鹿児島海軍航空隊で訓練を受けていたが、そこが爆撃されて霞ケ浦に訓練先を移し、そこでもまた空襲に。
台湾の予科練生たちは、日本敗戦後、なかなか帰国の船が出なかった為、予科練が解散し日本人や朝鮮半島からの予科練生たちが各々家に帰った後も、自炊しながら進駐軍への予科練施設の引き渡し作業を続け、結果的に予科練の終焉を見届けることになりました。

祖国に戻ると、彼らの故郷台湾は、中国領になっていました。
日本統治時代に日本の軍人だった台湾の予科練生は、ひとかたならぬ苦労を強いられることになります。朝鮮半島に戻った予科練生も、大変な思いをしたかもしれません。
力ある国々への「配慮」の為、現在の日本では殆ど報じられないそのことも、知られてほしいとYuniは思ってます。
クックちゃん「でも、日中戦争が始まった辺りから、志望動機が、それまでの個人的な理由とは一変して『お国の憂うべき状況を見て、何とかせねばと思った』一色になるんだよ」

 

ラーク「日本だけが異常だったわけでも、強制的に駆り出されたわけでもなく、時代の移ろいと共に、子供たちの心も自然にそうなってったのか。

恐ろしいなぁ…戦争…」

 

第3室「心情」。

予科練生の、家族への手紙や、日記や手記が読める展示室。特攻になり帰らぬ人となった予科練生たちの手紙を、ご遺族が寄贈したものです。

時として、あまりにも純粋で素直な文面にハッとする。

この壁の手紙文を書いた予科練生は、お母さんとの信頼関係がしっかり出来てたんでしょうね。年頃の男の子が、母親に異性への興味の話って、今だってそうそう出来ないじゃないですか。

後年になって、この手紙の話題を出され「いやー、この頃の俺、大概スケベなことしか考えてなかったからね。…っていうか母さん、こういう内容の手紙はさ、普通、読んだらすぐ捨てるものじゃない?」と、老母や妹たちと笑い合う未来が、永久に消えてしまったんだなと思うと、本当に可哀想…

※館内の画像は全てネットからの借り物です(館内の撮影は許可されていません)

クックちゃん「この記念館の展示、本当、世界中から多くの人に見に来てほしい。

日本だけが異常だったと思って、特攻隊の少年たちを洗脳された化け物扱いしてる間は、こういうことは世界中から無くならないかもしれないって、僕、思った」

 

ラーク「…うん」

 

綱引きに興じる予科練生たち。写真は皆、写真の鬼、土門拳の撮影。土門拳は撮影の為、霞ヶ浦予科練の子供たちと2ヶ月間を一緒に過ごしたそうです。

クックちゃん「訓練や授業は、当然、物凄く厳しかったよ。文字通りの『月月火水木金金』。

予科練は全国各地にあるんだけど、中でも霞ケ浦予科練の飛行訓練の厳しさは、トップクラス。

太平洋戦争が始まる頃には『鬼の筑波、地獄の矢田部(矢田部もつくば市)』って有名だったみたい」

 

ラーク「そうなの!なんで…?」

 

クックちゃん「霞ヶ浦は、海軍航空隊育成の要だったから。

一瞬でも判断を間違えれば、命を失うような高度な航空技術を教えてるから、そりゃ自然、厳しくもなっちゃうよね。霞ヶ浦の予科練生たちは、精神・肉体・頭脳共に、極限まで鍛えこまれるわけ。

ここはもう本当、展示を実際に見てほしい。

予科練生たちの年間スケジュール、1日のスケジュール、一週間のスケジュール、授業内容や各教科の教科書、凄まじい数の展示があるから。

そしてどの子も皆、凄い達筆」

ラーク「ひええ…」

クックちゃん「だけど、規律厳しい中にも、色々と娯楽はあってさ、その辺の展示を見ると、ちょっと心和むんだ。

おやつの大福を、配膳係の子達が嬉しそうに運んでたり、友達同士で散髪をし合ってたり、摘んできた花をニコニコしながら生けてたり、相撲に熱狂したり、ノートに漫画を描く子がいて、皆で興味津々に覗き込んでたり。

予科練側も、ちゃんと少年たちの息抜きを用意していて、月一で映画鑑賞会があったり、有名人が慰問に来てくれたり、外出していい日もあったりしたの。

あと、休日の『倶楽部』ね。近所の農家の軒先なんかを借りての、予科練生たち同士の集まりのこと。夏休みの一時帰郷や、家族の面会や、故郷から来た手紙を読むのは、とても心癒されるひとときだったみたい。

それ見ると、ホッとする。…ああ、この子たちにも、楽しいと思える時間があったんだなって」

 

酒保で寛ぐ予科練生たち。
この写真、眼鏡の子が一人いて驚いた。視力が1.2以下だと予科練生(というかパイロット)にはなれないので、どの写真見ても、予科練に眼鏡かけてる少年はいない。初めて見ましたよ。

マンガを描く予科練生と、熱心に見入る仲間たち。
こーいう光景、学童の時にもあったわ。ポケモンの絵描くの上手い子とかいると、みんな群がるよね。

ラーク「本当、今の子たちと全然変わらないね」

 

クックちゃん「そう、変わらないんだよね。…末に待ち受けているものが、違うだけで」

 
戦争も後半部に入った1944年10月、敷島隊の5人が初の特攻。うち二名が霞ヶ浦予科練の関係者。
特攻隊第一号となった、最年長23歳の関行男さん。霞ヶ浦で飛行教官をしており、奥様もおられました。
谷暢夫さん、19歳。のんきなところのあるお寺の子で、仲間たちからは「のんぶ」と呼ばれ、親われていました。
 
ラーク「『負けると判ってる戦争に、大人が子供たちを駆り立てて…』みたいな言葉をよく聞くけど、クックちゃんはあれって、どう思う?」
 
クックちゃん「…正直、解んない。
ここ来る前は、僕もそう思ってたんだけど…この記念館、時系列で色んなデータを駆使して、様々な角度から丁寧に時代を追ってるんだよね。
それで見ると、日本は前半、実は圧勝だったんだよ」
 
ラーク「え、圧勝してたの?…アメリカに?」
 
クックちゃん「うん。ミッドウェー海戦まではね。
そこで大敗北して、軍事的重要地のマリアナ諸島を取られてから、そこを拠点として本土への爆撃が始まったの。チェスで言えば、最強のクイーンを相手に取られてしまったわけだよね。
主導権が日本からアメリカに移って、形勢が一気に逆転して…つまり、捨て身の特攻作戦が考案されて、始まっちゃったのも、そこからなんだ。
それ見たら、ちょっと僕、引き返せなくなった心理も解る気がして、怖くなった。…指導者ばかりじゃなく、国民も。
連日載ってた勝利の新聞記事だって、最初は全然、嘘ついてなかったんだよ。気が付いたら、取り返しのない袋小路にいて、下手に引き返せば、これまで亡くなった人の命は何だったんだ、ってことになる。
子供たちの間にも、僕が故郷を守らなくては、とか、先に戦死した兄の仇を取ってやる、とかいう動きが、自然に加速する」
 
七つボタンの予科練の制服。白は夏服、紺が冬服。金ボタンには桜と錨を組み合わせた模様が彫り込まれています。
ラーク「そうすると、戦況がどんどん詰んでいっても、嘘を塗り重ねてくしかなくなるわけか…
そしてその嘘も、次第に大きく膨らんで、現実と隔たってくる…」
 
クックちゃん「一撃目で負けてれば、そこまで行かずに済んでたのかもしれないけど、なまじ初手で連勝しちゃってると、後が怖いよね。
完全に詰んじゃって、王様ひとつだけで逃げ回っている状態になっても『負けじ魂さえ失くさなければ、まだ行ける』って、案外、どの国の人でも、その立場になれば言うんじゃないかな」
最後の展示室7「特攻」の壁にある、大小の光。
海外含む全国各地から予科練に入隊し、散っていった特攻戦死者の数と、一人一人の年齢を表しています。
 
負けても『いや、そこは軍事的には取られても重要な場所じゃない』『ここで負けたら、これまで戦死した人が浮かばれない』『このご時世に前線に志願しないなんて、非国民』という国民心理は『赤毛のアン』シリーズ最終巻の、第一次世界大戦中のカナダの日常を書いた『アンの娘リラ』にも、リアルに出てくる。
戦争に反対した人(「月に頬髭」なる人物、物凄く憎々しく描かれてますが、日本でいえば首尾一貫した反戦主義者、つまり「赤」です)を村の男たちが襲ったり、その人の家を破壊したりまでしてしまう。敗北の情報や降伏の仄めかしには耳を貸さない。
「女がいれば戦争には皆反対するはず」も妄想で、逆に女は弱気な男どもを猛烈に鼓舞する側にも回ります。就学前の子供たちが、大人たちが話す敵国の恐ろしい噂を聞いて怯え、次第に軍国思想に染まってゆく様子も書いてある。
読んでみたら判る。「赤毛のアン」最終巻は、完全に戦意高揚目的のネトウヨ文学です。「赤毛のアン」の少女時代にはあれほど長閑だったプリンス・エドワード島は、軍国一色に染まる。作者モンゴメリも、完全にそうだったんだと思った。今も名作シリーズの最終巻として日本で読まれているのは、単に「カナダが戦勝国側にいたから」。
こういう場合の同調圧力、日本特有なんか全然じゃないんだと、これ読んで気付いた。(因みに第一次世界大戦では、日本はカナダと同じ連合側)
「アンの娘リラ」のこの表紙イラストにも、戦闘機と共に白い十字架が無数に描かれてますね。
うち一つ大きめの十字架が「赤毛のアン」の息子の一人です。
赤ケシは英語圏では戦死者を弔う花。犬は…小説を読んでみて下さい。
 
因みにYuni「永遠の0」は読んでも観てもいません。予告編すら観ていない。
だから、そこからの印象で物を書いてる部分は一切ありません。
予科練に関しては、創作物を観たくないのです。
 
クックちゃん「観覧を終えて、一歩外に出ると、公園と田園と森が青々と広がってるんだ。
パイロットの卵だった予科練生たちが憧れたに違いない青空が、何処までも大きく広がって、鳥や蛙の声がのどかに聴こえて、子供たちがワイワイ楽しそうに遊んでる。…不思議な感覚だよ。
僕、この感情に名前はつけないでおくよ。
ここは多くの人に実際に訪れて、実際に目で見て、色々と考えてほしい。とても良い施設だから。
英語の説明が無いのだけは、ちょっと残念だけど」
 ・・・・・
 
近くのカフェ、桜坂テラスに立ち寄りました。先月オープンしたばかり。
 
「七つぼたん」という人形焼きを頂きました。デザインも名前も、予科練生の制服のボタンにちなんでいます。
 
 
 
 
「さくら貝の歌」八洲秀章

美(うるは)しき 櫻貝ひとつ 

去りゆける 君に捧げむ

この貝は 去年(こぞ)の濱邉(浜辺)に

われひとり 拾ひし貝よ

 

ほのぼのと うす紅染むるは

わが燃ゆる さみし血潮よ

はろばろと かよふかをりは

君恋ふる 胸のさざなみ

 

あゝなれど 我が想ひははかなく

うつし世の なぎさに果てぬ

 

(詩:土屋花情)

 

「我が恋のごとく かなしや桜貝 

かたひらのみの さみしくありて」

「さくら貝の歌」詩の題材になった、作曲者、八洲秀章自身の短歌です。