ということで、VIP男性版お百度参りの続きです。

(勝手にVIPをつけ加えましたww)

前回は、室町時代中期の伏見宮さんを紹介しましたが、今回は遡って、亀山院。

 

後嵯峨院の子で、後深草院の弟。

大覚寺統の祖として著名ですよね。

 

その亀山院もお百度参りしてるんです。

 

史料は『勘仲記』。カンチュウキ、と読みます。

読み方って、難しいですよね…。

解由小路 兼」さん、という方が記主なのですが、

その氏・名両方から1文字ずつ取った日記名になってます。

(辞典だと「広橋兼仲」で立項されてることが多いです)

 

省略するんなら頭文字で『勘兼記』じゃないのかよって思うかもしれないけど、

勘解由小路(広橋)ファミリーは「兼」から始まる名前が多い。

『勘兼記』だと、どの勘解由小路さんかわからないから、「仲」の字を使ったと思います。推測です。

 

つーか、この名字も読めないよね。

カデノコウジ カネナカ さんです。

京都の方なら普通に読めると思う。

 

日記の名前はいろんなバージョンがあって面白いけど、

それはまた別のブログでご紹介しますね。

 

勘解由小路兼仲さんは、中流の貴族。

弁官経由で参議になり、運が良ければ中納言になれる、そういう家。

家格でいうと、「名家(メイカ)」というものです。

 

「摂関家」はよく聞くと思いますが、それも家格としての名前です。

ほかには「清華家」「羽林家」などがあります。

 

では、弁官とは何かというと、

太政官と各省との間にいて、双方の取りまとめ役のような立場。

現代に例えると事務次官のような立場でしょうか。

いや、各省から内閣府に出向したキャリア官僚あたりが良いかな…。

ともかく、

代々弁官になるような家柄は、「朝廷の実務に通じている家」などと評価されます。

 

そんな家に生まれた兼仲さん。

弁官として朝廷(つまり天皇)に仕える貴族ではあるのですが、

一方で、摂関家の家司(ケイシ、つまり家来)でもある。

そして亀山院の院司(インジ、つまり家来)でもある(笑)

さらにwikiによれば、後深草院と室町院の家司も兼ねていたともある。

どんだけ重宝がられてたんだ~。

 

全部時期が被ってるかというと、そこはわからないけど、

こんな風にお勤め先が複数あるのが、この時代の貴族。

「兼参(ケンザン)」と呼んでいます。

とりわけ弁官は実務能力が買われて、引く手あまたな場合が多い。

 

さて、そんな兼仲さんの日記から…、

…お百度参り、でしたよね。

大丈夫、忘れてないよ。

 

弘安7年5月から6月にかけてのことです。太陽暦1284年。

弘安の役の3年後ですね。

 

(さっくり現代語訳)

【5月11日】

本日から亀山院が賀茂社にご参籠します。お百度参りをなさるためだということです。実は以前から、非公式で毎日(賀茂社に)御幸なさっていたのですが、本日からは公式行事ということになりました。担当奉行は院司の内蔵頭の宗親朝臣です。

 

【6月3日】

今日、上皇は賀茂社から御戻りになられました。無事にお百度参りを遂げられたことは、朝廷にとって大いなる喜びです。また、(院の)お望みも間違いなく叶うことでしょう。すばらしいことです。

 

【5月11日】

自今日上皇御参籠賀茂社、可有御百度云々、自去比毎日密々御幸、

自今日為尋常之御参籠、院司内蔵頭宗親朝臣奉行、

【6月3日】

今日上皇自賀茂還幸、御百度無為令果遂御之条、朝家之大慶、叡願又無相違、珍重々々、

 

だいたいこんな感じ。

尊敬表現が若干くどい気もしますが、家臣が主人について語っているので、

そこは割り引きましょう。

さて、ではここから各項目についてイジってみましょうか。

 

日数

伏見宮の貞成さんは3日かけてましたけど、亀山院はけっこう日数かけてますね。

23日間。

1日あたり4、5回という計算になりますでしょうか。

 

非公式から公式行事へ

しかし、最初は非公式で通ってたんですよね。

その非公式でお参りした回数は、100のカウントに含まれるのだろうか。

ま~、含むでしょうね…。

たぶん。

だとするならば、1日4、5回という計算はハズレ(笑)

本当のスタート日がいつか分からないので、1日あたりの参詣回数は、

4回未満、ということしかわかりません。

 

おそらく、お百度参りのために賀茂社に毎日通ってたけど、

段々まだるっこしくなっちゃって(笑)、

えーーい、面倒だから泊まっちゃえ!

というわけで参籠(つまり泊りがけ)してお百度参りをすることにしたのでしょう。

 

そうなると今度は非公式というわけにはいかなくなって、公式行事に格上げして

担当奉行も任命した。

 

こんな流れでしょうか。

 

賀茂社

賀茂社でのお百度参りってけっこう古くからあるんです。

だから、お百度参りといえば賀茂社、というイメージはたぶんあると思います。

ただ、賀茂社って上賀茂と下賀茂あるじゃないですか。

どっちなのかな…。

残念ながら、この史料じゃわかりません。

 

「叡願」

亀山院の願い、ですよね。

何のお願いでしょうか。

お百度参りをするぐらいですから、軽はずみな願いではないですよね。

しかも当初は非公式でやってたわけです。

強い願いがあるということをあまりオープンにしたくなかったのか、

願い自体が、プライベートな内容だったのか、

院自身がお百度参りすることを知られたくなかったのか…

 

色々と、しかも非公式だったことを絡めて、考えをめぐらせることはできますね。

でも「叡願」が何かなんて、なかなかわからない…。

「不倫の疑いを晴らしたい」などとはっきりわかる伏見宮サダフサさんのケースは、ラッキーだと思います。

 

…とはいえ、可能性をいくつか推測してみましょうか。

①元寇がらみ。

亀山院は戦勝を期して、扁額を書いたりしています。

弘安の役は終わっているけれど、3回目の襲来の可能性もありましたから。

ただ、そういう願いだとすれば非公式からスタートするのは、…ねぇ?

おおっぴらにやってこそ、「私、日本のこと、ちゃんと考えてます!」

…ってアピールできる気もしますが、

現代人の下品な考えでしょうか?

 

②所領のため

亀山院は所領獲得に奔走します。一番大きなものは安嘉門院という女院の所領。

これは高校日本史で習う「八条院領」という荘園郡のことです。

もとは八条院(父は鳥羽院、母は美福門院)という女性の所領だったのですが、

その後、安嘉門院(父は後高倉院)に渡りました。

弘安6年にその安嘉門院が亡くなり、さて、その所領は誰が継承するの?

ということで、必死に鎌倉幕府にアピールした亀山院のものになった、という次第。

その荘園群は、後に大覚寺統の財源となりました。

亀山院は必死だったんですよ、この荘園群の獲得に。

ただ…。

安嘉門院領の継承は弘安6年中のことで、すでに終わったことなんですよね。

 

③大覚寺統の後継者のため

両統迭立期です。

どちらの皇統が帝位につくのか、いや、どちらの皇統が皇太子になるのか、という争いが熾烈な時期なのですが、弘安7年の天皇は後宇多天皇。

めっちゃ必死になってアピールしているのは持明院統の方。

次世代である、後宇多の長子・後二条天皇は弘安8年2月の生まれ。

まだ生まれていないですね。

いや、後二条の安産祈願の可能性はあるか……?

母西華門院が後二条を身ごもり、それを亀山院が5月中旬に知って安産祈願…

…というのは早すぎか??

 

あるいは、幕府に猛アピールする持明院統への呪詛的な百度参り?

 

結局、叡願か何かはわからないけど、

院のような身分でも、お百度参りをやってます。

そして、

通うのが面倒になって、途中から泊りがけになっちゃったのが、なんかカワイイ。

 

お百度参り(5)