陸奥国磐井郡藤沢城主・岩淵秀信の次男として誕生。
天正年間(1573年 - 1591年)、豊臣秀吉によって主家・葛西氏と共に岩淵氏滅びる。
慶長元年(1596年)、長崎に住みキリシタンとなるが、迫害によって五島列島宇久島に逃れ、ここで洗礼を受け、寿庵(洗礼者ヨハネの意)と名乗り、五島氏に改名する。
慶長16年(1611年)、京都の商人田中勝介と知り合い、その推薦によって、支倉常長を通じて陸奥国の戦国大名・伊達政宗に仕えた。慶長17年(1612年)、後藤信康の義弟として、見分村(現在の岩手県奥州市水沢福原)1,200石を給される。寿庵は原野だった見分村を開墾するため、大規模な用水路を造り、これが「寿庵堰」と呼ばれ現在も農業用水として胆沢平野を潤している。大坂冬の陣・夏の陣では、伊達政宗の配下として鉄砲隊の隊長を務めた。
一方で、寿庵は熱心なキリシタン領主であったため、天主堂・マリア堂などを建てた。家臣らのほとんどが信徒となり、全国から宣教師や信徒がその地に訪れたという。また元和7年(1621年)、奥羽信徒17名の筆頭として署名し、前年のローマ教皇パウルス5世の教書への返事を送った。
ところが、江戸幕府3代将軍・徳川家光の治世となると、キリスト教の禁止が厳しくなり、主君・政宗もその取り締まりを命ぜられた。寿庵を惜しんだ政宗は、布教をしない・宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとしたが、寿庵はこの条件を拒否。堰の完成を待たずして陸奥南部藩に逃亡したとも、出羽秋田藩に渡って死去したとも伝えられる。その後、寿庵から用水土木技術を学んでいた弟子の千田左馬と遠藤大学の指導の元、およそ17キロメートル分の工事が進められ、寿庵堰は寛永8年(1631年)に完成した。
大正13年(1924年)、治水の功により従五位が贈られた[3]。昭和6年(1931年)には彼の館跡に寿庵廟堂が建てられ、毎年9月11日に寿庵祭が行なわれている。昭和26年(1951年)、宮城県登米市(東和町米川西上沢)で後藤寿庵の墓が発見されている。
千田 慎二




