皆様、NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」を見てますか~。
今度の日曜日(3月9日)に、「軍師 官兵衛」第10話で、「毛利来襲」が放送されます。
私の地元、英賀(あが)が登場します。
英賀軍と黒田軍が戦うきっかけとなった最初の出来事です。
私の主宰する英賀保文化教室という名前も、もとは英賀という地名からきています。
今回は放送の前に、英賀のことを少しだけ知っていただこうとブログを書きました。
英賀は、姫路市飾磨区。姫路の南西部に位置します。
もよりの駅は、JRなら英賀保。山陽電車なら西飾磨になります。
JR姫路駅のすぐ西の駅が、英賀保駅です。
駅の1キロ南に三木通秋の守る英賀城がありました。
ちなみに小寺政職の御着城は姫路の一つ東の駅にあります。
もともと小寺、黒田、三木の三氏は姻戚関係でもあり、
官兵衛が龍野の赤松氏と戦った青山の戦いでは、英賀軍も官兵衛に味方して赤松軍と戦っています。
良好な三者の関係でしたが、
三者が敵、味方に分かれたのは、織田対毛利の激突が現実のものとなり、播磨の武将がどちらに味方するか選択を迫られたこと。
そして小寺、黒田が織田信長についたのとは逆に、一向宗門徒を多く抱える英賀の三木は本願寺の影響で毛利側につくことを選択したのでした。
合戦のあらまし
天正5年(1577年)5月、毛利軍の水軍の将、浦宗勝が率いる大船団が英賀ノ浦(田井ヶ浜)に上陸しました。
姫路城のある南西7キロの地点です。その数、約5000。
上陸した大軍は、英賀城内にある一向宗門徒の本拠地、英賀御堂(英賀本徳寺)に集結します。
大軍で一気に姫路城を落とそうという狙いです。
一方の黒田官兵衛は、わずか500の手勢で出陣します。十分の一の人数です。
両者は、姫路領と英賀領の中間にある町ノ坪で激突します。
町ノ坪は英賀領でしたから、人数の少ない黒田軍の方から奇襲をかけたものと思われます。
土地勘がなく、野戦に不慣れな毛利水軍は総崩れになります。
しかし、黒田軍の数が少ないと知った毛利軍も次第に反撃。
その時、茂みに隠れていた農民が掛け声をあげ、旗をかかげ、太鼓を打ち鳴らしました。
織田の大軍が来たと勘違いし、動揺した毛利軍は逃げるように引き上げて行きました。
数に劣る官兵衛が、あらかじめ農民と相談し、奇策を練ったのでした。
農民との信頼関係がなければできない作戦ですね。
この戦いを「英賀合戦」と言われていますが、正しくは「町ノ坪合戦」です。
「英賀合戦」はそれから3年後、1580年に秀吉によって落城した時のことをいいます。
田井ヶ浜から少し北東の閑静な住宅街の中に英賀城の本丸跡があります。
山陽電鉄、西飾磨駅から西へ徒歩5分ぐらいの距離です。
播磨では、小寺氏の御着城、別所氏の三木城と並んで播磨三城の一つに挙げられています。
当時の姫路城よりは、はるかに巨大だったようです。
城の西側を夢前川。東を水尾川。
南の瀬戸内の海水を城内に引き込んで、船が乗り入れることができる日本でも大変珍しい水城でした。
その勢力は、西は網干。東は的形まで、姫路市内の海岸部全域を手中に収めていたようです。
商業や文化が盛んで、商船が入港して貿易港として大変賑わい、
広い城壁の中に商店や民家が立ち並び、ちょうど堺のような独立した都市国家だったようですね。
ここでは城主が独裁で土地を治めるのではなく、社寺や商人、町人が一緒になって合議によって自治組織が作られていました。
すでに共和制が行われていたのですね。
本丸跡の傍に説明文が掲載されてありました。
関心のある方は、拡大してご覧下さい。
1580年、内応者の誘導で秀吉に攻め落とされますが、城主の三木通秋は辛くも城を脱出します。
信長、秀吉の戦いにおいて、唯一城主を討ちもらした例でもあります。
山陽電車網干線の西飾磨と夢前川のちょうど中間地点に、毛利軍が上陸されたと言われる場所があります。
すぐ上を電車の高架が通っていますが、官兵衛の時代は、電車の高架から南が海だったそうです。
田井ヶ浜の跡地です。
ここに毛利軍5000が上陸しました。
播磨最大級の港があった場所ですが、今は見る影もありません。
小説や歴史書など通説では「英賀ノ浦」と呼ばれていますが、正しくは「田井ヶ浜」です。
そしてここには、ぜひ皆様に知っていただきたい、とっておきのパワースポットがあるのですよ。
田井ヶ浜跡地にある「巽地蔵」です。
英賀神社から辰己の方角に位置することから付けられた名前だそうです。
英賀城が存在する前から、この地にあって、とても霊験あらたかなお地蔵様です。
大小あわせて49体ものお地蔵さまがおられ、通常よりも強いパワーがあるそうです。
なんたって、ラッキーセブンの7倍ですからね。
ぜひぜひお参りにおいで下さい。
人生が好転するかも知れませんよ。
今回の「軍師 官兵衛」では少し残念に思うことがあります。
それは、
英賀城のことがほとんど描かれていないそうです。
合戦シーンも少しだけ。
あとは光の侍女が、どうしたこうした、という話ばかりだそうです。
英賀城城主も登場しません。
何とも残念な限りです。
誤りの箇所も幾つかあります。
黒田軍が英賀御堂を攻撃したとされますが、英賀御堂は城内にあるので攻撃は不可能です。
戦場は前述の通り、町ノ坪です。
ドラマ中では、毛利の小早川隆景が「毛利の強さを見せ付けるのが目的」との負け惜しみコメントを残していますが、播州人から見れば、毛利の弱さを見ただけ、に映っています。
英賀城側としては、5000人分の食料が減らされただけ。
全く頼りにならず逃げ帰り、その後は二度と援軍に来てくれませんでした。
その3年後に英賀城は落城します。
あれほど栄えていた城下町は完全に焼き払われ、
英賀城も本徳寺も田井ヶ浜の港も、再起不能になるまで破壊し尽くされました。
再び毛利軍が上陸し、敵の前線基地になることを恐れたのですね。
その後秀吉は、姫路に三層の城を築き、新しい城下町を作りました。
その時、英賀に在住していた優れた商人を姫路に呼び寄せ、
それで姫路の城下は発展したということです。
こういう記事を書いてしまいましたが、
どんどん教室ブログとは かけ離れたモノになっています。
なお歴女で名高い小栗さくら様が、英賀城のことを詳細にレポして下さっていますので、こちらもぜひぜひご覧ください。