これから帰省するという千尋一家が、朝方、がやがやとやってきた。車だから、一緒に帰ろうよと誘われたが、9月にはどうせ帰るのだし、何も好き好んで渋滞に巻き込まれるのもなんなんで、ちょっと仕事が、と言い訳をして、その場を切り抜けた。千尋は、散らかった部屋をさっさと片付けると、キッチンの片隅に置き忘れられていた淡い赤紫の切子の一輪挿しを見つけてきて、白いテーブルの上に置いた。
・・切子はね、ごちゃごちゃしたところに置くと全然だけど、何もないところに置くと、ほら、いいでしょ・・・
それはレイちゃんが買ってきた切子だった。彼女がまだこの部屋に来ていたころ、テーブルの上はいつもすっきりしていて、切子には、よくガーベラが活けてあった。ガーベラは赤だけじゃないんだと知ったのは、その頃のことだった。
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小一時間もすると、千尋たちは実家に向かって出て行った。この時間だと向うに着くのはきっと明日の明け方だろう。
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テーブルに花のない一輪挿しが置かれているのも妙なので、近所の花屋に寄ってみた。ガーベラありますか、と聞いたら、今年は暑すぎてあまりよくないんですよ、といいながら、ボクにはどう見ても普通のガーベラが無造作に金属製の盥に入れてあった。この一本だけでもいいですか、と桃色のとげとげしいのを指さして聞いたら、いいですよ、ご自宅用ですね、と言って、透明のフィルムにクルクルっと巻いてくれた。一本きりだと、フィルム代と応対する手間の方がよっぽど高いよな、と思いながら、100円玉をいくつか手渡した。
部屋に戻って、適当な長さに切って活けてはみたものの、なんとなく一輪挿しの高さと、茎の長さと、花弁の大きさのバランスが良くない。こういうのを一瞬に判断して、絶妙なバランスを実現できる人たちというのは、一体どういう感覚をしているんだろうかと、不器用なボクは恨めしく思った。ついでに、一輪挿しだから一本だけ買うというのは、結構無謀なんだなと思い知った。そういえば、レイちゃんも一輪挿しのほかに、台所や洗面所や、その他何か所かに活けていたようだったから、きっと一輪挿しのバランスがうまく取れなかったヤツが、そういうところに回されていたんだろうなと、今にしてようやくその真実を知った気がした。
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切りすぎて、一輪挿しの口から、やっと鼻先を出しているガーベラは、なんだか気の毒なほど窮屈そうに見える。やっぱり、こういうのはレイちゃんがいなきゃ無理だ。
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テーブルの中央で一輪挿しが位置を占めると、なんだか余計なものをテーブルの上に置きづらくなった。花を活ける効果というのは、美しく愛でるということもあるだろうが、周囲を整頓しておこうとさせる心理的効果の方が大きいのかもしれない、などと感心しながら、ボクはダイニングで立ったまま、ビールを飲んだ。
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ぼんやり一輪挿しのある空間を眺めていたら、今さらだけど、なぜ、ボクはレイちゃんと別れてしまったんだろうと、考えても仕方のないことを考えるハメになってしまった。別にあの時、別れなきゃならない絶対的理由なんか全くなかったのに、転勤で少しだけ遠くに行くことになったレイちゃんと、どうして白黒つける話をしてしまったんだろう・・・
・・・それはホントは考えるまでもなく、ボクがレイちゃんに、仕事で成功していくレイちゃんに、嫉妬していただけの話なんだけど、それと認めるのは、ずいぶん時間が経った今でも、かなり苦痛だった。
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結局、ボクは一輪挿しのある空間にはなんとなく足を踏み入れられなくなって、一日中、ダイニングで過ごした。ふと、この部屋は少し広すぎるかもしれないと思ったけど、引越しするには増えすぎた荷物を思って、うんざりした。
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そういえば、ユウちゃんは、いつ来るんだろう?と思ったが、いつくるの?とメールするのも憚られて、まあいいや、と放っておくことにした。
なんともすっきりしない一日が終わった。
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つづく