日本人は宗教嫌いと聞くけれど、カルト教団にいとも簡単にハマるのも日本人に多い気がする。
特定の宗教を長く信じる日本人は寛容さにかけ、信じたものを鵜呑みにし、己で考えることを止めてしまう。
世界で人種を問わず、国を超えて信じられている宗教(?)があるとしたら、それは妄想教(狂)である。
ボーっとしていれば一分以内に妄想がはじまる。自分が妄想していることに気が付かず、妄想自体を現実だと思い込んでしまうからたちが悪い。
この呪縛から逃れるために、他人と話をし、物語を読み、映画鑑賞し、モノを買いあさる。
しかし妄想の呪縛から逃れるどころか、あたらな妄想がそこからはじまるのだ。
挙句の果てに、人生に疲れたから自分探しの旅に出かけるといい、旅から帰っても肝心の自分は見つからない。
この話を聞いて自分だけは違うという人は次のような事にも気を付けていてほしい。
犬や猫、赤ちゃんや子供が好き。はたまた恋愛対象を深く好きになることを想像してほしい。
それらは「愛着」とよばれ、世間では良いこと、尊い感覚として分類される。
しかし愛着が強いもの(親、子ども、友人、ペット)を失ったとき、赤の他人が死んだときより激しい悲しみがこみ上げてくる。
それは悲しみが「愛着」によって生まれるというのが事実だからだ。
妄想にしても、愛着にしても、なぜ人間はそれらに振り回され、ひと時たりとも満たされないのだろう。
自分の描いた理想を手にし、それらが恒久的に継続した人などいるのだろうか?
誰一人としてそんな人はいないと思う。
それは描いた理想こそ妄想だからだ。
「夢がない人生など味気なく、生きる価値がない」
僕もそう思ってきたんだけれど・・・
心地いいものは快楽とは異なると信じてきたが、残念ながらそれらは同じものだった。
僕らの脳は自動的に快楽を求めるように作られていて、それが執着や愛着と強く結びついている。
ペットを飼ってかわいいと思う気持ちや、好物を食べておいしいと思うこと、セックスをして充実すること、麻薬を使ってハイになることはすべて快楽なのである。
快楽には程度の差があって、行き過ぎた快楽には、自制心や道徳(宗教?)の様なものが制限をかける。
行き過ぎるとは、畜生のように分別をわきまえず本能的に行動することだろう。
適度な快楽を得るための準備として妄想があり、それがあらゆる行動へと搔き立てるのだ。
自我が目覚めたころ(5歳くらい)から死ぬまで妄想を続ける。
すべてをオーガニックでやっていた頃はまだよかったが、科学技術、テクノロジーを使うようになって、地球も身体も精神も傷んできたように思う。
オーガニック=アナログ的なものと解釈してきたが、存在を素粒子から考えると、全ての存在はデジタルであることに気が付く。
継続し普遍的に繋がっているものなど何一つ存在しないのだ。
ただスピードが増すと、独立した点は線となり、面となり、立体に見える。
それは感覚がそのスピードについていけずそう見えるだけで、物体は素粒子の集まりである。
更にいえば「超ひもの振動」、そのひもはゼロポイントフィールドすなわち宇宙全体が作っているという科学的なもので説明される。
各存在は絶妙なバランスで引き合っていて、自我も他人と比べることで認識できる。
その自我を自分だと思い込めば、他と比較(競争)せずにはいられず、それが妄想や愛着を生み出しているのだ。
この仕組みを解明し、理解させる教えは好まれない。
なぜなら理解したとたん,自我は意味が無くなってしまうからだ。
妄想を止めようと思っても、無くならないことも同様である。
それらが苦しみの根源であるのなら、光速の十数倍速い思考を使って、事実を見ればデジタルの存在を認識することもできる。
しかしそこから目をそらさない訓練をしないと、各人の宗教観(道徳観)のレベルに沿って、妄想を始め、それぞれの快楽に溺れることになる。
そして短い人生は、気が付く前に終わってしまうのである。
「妄想狂」止めてみませんか?

