物事には成功と失敗があり、どんな方もできるなら成功したいと望んでいる。
今ある状態がいとも簡単に変わってしまう現実を不安に感じるのは普通のことで、恐れることは何もない。しかし成功欲があまりにも大きいと、それに比例して不安も増大する。
野性の鳥や動物たちは、家もなく常に外敵におびえて暮らしているにもかかわらず、占いや神を信じる事もなく日常生活を営んでいる。
彼らには自我がなく、自分はこのように生きたいとか、生まれて来た目的はこうであるなどと考えることがないから、与えられたものの中で多くを望まず生きている。
人間の場合、4歳児頃に自我が芽生え、幼稚園など集団の輪の中で自分を感じ始める。
大人の悩みの殆どは、人間関係の中から生まれてくるというのに、自我が芽生えたてのほやほやの彼らをなぜそこへ放り込むのだろう?
恐らく自分という概念は、他人にどう見られるかによって作られる蜃気楼の様なものだから、儚く消える不安を大人が感じているからだと思う。
自我の芽生えから、思春期の葛藤、し烈な競争社会の一員として自我を膨らませ、自我と共に老い、肉体だけが死んでいく。
占いに限らず、厄払い、護摩焚きなども、曖昧な存在である自分を守るために、効くかどうか分からないものへ大切なお金を使う。
大切だと感じているお金でさえ本当はただの紙切れで、電子マネーなら実在すらしていない。そんなもののためにあくせく働くのだ。
神を信じる行為もそれに似ていて、「信じるものは救われる」と清水の舞台から飛び込めば幸せになると言われ、それを信じて飛び込んだなら死んでしまう。
国を動かす決定権がある人まで、出会ったこともない神を真顔で信じ、戦争を指揮するのだから自我というのはとても浅はかだということが分かる。
しっかりと認識でき、理解出るものへはお金を出し渋り、なんとなく大衆がいいという曖昧なものにお金を使う。冠婚葬祭などもその傾向が強く、特に葬式など死んだ人に多額の金を使うのは愚かな行為と誰も思わないのが不思議だ。
もし死後の世界に天国地獄のような優劣が決まるランクがあるとしたら、それは豪勢な葬式や値段の高い戒名を買ったからでなく、生きている間にどのくらい徳を積んだかだと、なぜ気が付かないのだろう?
まだ起きていない未来を自らの知恵で工夫し、現状の問題を乗り越えるチャレンジをしないで、その先をギャンブルのような運に任せるのはなぜだろう?
それに理由があるとしたら、次のようなことだと歴史を学んでそう思う。
我々はヒト化(Hominization)の中でもホモサピエンスというものに属している。
ホモサピエンスが誕生して間もないころは、他のヒト化の生物のネアンデルタールなどが既に存在していた。
遠い昔のことで学者の言うことを信じるしかないのだが、体格で劣っているホモサピエンスが彼らに打ち勝って生き残ったのは、大きな集団が一つになって機能したからだという。
小国に大国が勝てなかった戦争の歴史の中で、代表的な小国はベトナムである。いわゆるソ連と米国の代理戦争の舞台にさせられたベトナムは、優勢に立った米国をも追い出してしまったのだ。
彼らは以前モンゴル帝国の侵略にもめげなかった世界で最もシンプルで強い国なのだ(日本はベトナムのおかげで三回目の元寇を免れた)。
そのキーとなったのが、集団が一つの目的に向かって一致団結すれば、団結していない個が武器と資金をつぎ込んでも太刀打ちできないと言う事実だ。
一致団結に役立つのが想像を信じる力で、かつてホモサピエンスが他のヒト化を絶滅させたのと同様の力である。
世の支配者はそれを利用し財産を増やすが、その矛先が自分に向くのを常に恐れている。
過去には情報を占有することで優位に立った支配層がスパイやハッキングによって、国や世界を操ろうとしたが、通信技術向上によって(特にインターネット)情報のリークが始まった。現代は逆にマスメディアやSNSが大量の情報を垂れ流しかく乱する戦法に変えたのだと最近の流れを見て思う。
話を戻すが、ホモサピエンスは「嘘をつき、騙される」曖昧な自我を上手に使ったため、正直に生きたらせいぜい150人くらいの集団のまとまりが限界といわれるヒトの社会を、何億人単位でまとめることにまで成功した。
資本主義が最も機能する現代の社会構造は共産主義や社会主義である。
自由主義、民主主義は国民一人一人にたくさんの夢を与え、妄想に浸らせれば機能するが、夢はいつか現実にぶつかり、真っ当なビジネスは衰退する。アメリカが世界の警察を降りたのはそのためである。
共産主義のリーダーは、人々に正しい情報を与えないようにしなければ国として機能しないので、「独裁者」的発想の人がリーダーになり、国民の関心は私利私欲に走り、他人の幸福を願わない国民性が生まれる。
民主主義のリーダーはありもしない、出来もしない未来の理想を信じ込ませる「名役者」がリーダーになり、準リーダーに各企業を携えて、それらを鵜匠のように操る。
しかしどちらも限界が来ているように感じる。それは自然が破壊され、他の生命を含めた生態系を壊し、生命の循環を取り返しのつかない所まで崩壊させているからだ。
希望という名のもとに、企業戦略、資本投資、技術革新、資源開発、国防、人権問題、福利厚生、余暇活動、宗教が生まれ、それらは人々の創造力を掻き立て、結果として環境破壊を続け、あらゆる生き物の自由と生活を奪っている。その中には当然人間の自由と生活も含まれているのだ。
実在しない概念(妄想)が仮想現実のプランを立て、それを実行するときに、必ず他の生命を犠牲にするのだ。
自我が芽生えた後の人々の一番の関心ごとは、病気、老い、死を免れたいということだろう。
よくよく考えてみると、いずれみんな死ぬのに、なぜ死にたくない、長生きしたいといって占いや神を信じるのかな?
あるとき芽生えた「私という概念」が生の本質からかけ離れた、ありもしない、起こりえないことを信じるからだと思う。
もし「自分」が存在するとしたら、それは過去や未来ではなく、現在にのみ存在すると思う。
それは過去に何をして、今何を持っているか、未来へどんな野望を抱くかではなく、
瞬間を感じ、常に予測できず変化し続けるものの中で行動するだけで十分。
誰でも経験していることに、この瞬間を生きているときは、今まで大切に育てて来たはずの「自分」はいないという事。
不安解消は、根拠の薄い神秘的なものをやみくもに信じるのではなく、自我の無い状態で行動するとき起こるんじゃないかな?




