すべての人類に共通する疑問があるとしたら、

「いづ(ず)れ死ぬのになぜ生まれて来たのか?

だと思う。

 

 

答えはいたってシンプルで、

「生まれたことにも、死ぬことにも意味はない

のである。

 

これは僕の言葉ではなく、ブッダの言葉なので間違いないと思う。

 

その答えを聞いてある数学者は方程式を作った。

x(生まれたこと)=0

y(死ぬこと)=0

x+y=0

 

これらの代数に何を掛けても、何で割ってもその答えは0になる。

 

xとyの挾間で「生きて」その間になんとか意味を見出そうとする。

 

数学者はさらに続ける。存在はすべて積分で表されると。

 

しかし数学には限界があって、

「いかなる数(存在)も0で割ってはいけない

という特例を遵守しなければならない。

 

それはなぜかをハッキリ説明できる人は少ないが、

このことを人生に当てはめると見えてくるものがある。

 

0と0の間で立派な人生を生み出そうと頑張る人が、人生の晩秋に差し掛かり、過去を振り返って分析しても様々な波があったことが分かるだけで、その波に意味を見出せないということだ。

 

0から0への変化の波にドラマを感じるのはなぜのだろう? その前に「なぜ?」とおもうのはなぜだろう?

 

意味を考える行為は数式を導こうとする頭遊びに似ている。

だから数式が導き出されても、一般の方の人生には役立たないのかも知れない。


思考は常に、過去の経験や未来の希望に強い影響を受け続ける。

 

 

歴史(事実)は繰り返されるというように、過去のデータから未来を予測することはある程度できる。

 

例えば気象予報がそうである。

しかし週間天気予報くらいの短いスパンなら予想できても、約45億年前の地球の誕生のデータは無いから、地球の滅亡(約45億年先?)付近のことは全く予想できない。

 

存在は何も無いところから生まれ、やがて何も無い所へ還ってしまうのに、全ての根源が何もない所から発生すのは、不可解(妙)である。

 

これが0の正体であり、不確かな0で存在を割り算(分析)してはいけない理由である。

 

誕生してから、日々経験を足し続けているのだから大きな成長も望めるはずではないか?

確かにそうだが、偉人の死も、大富豪の死も何かが大きな音を立てて崩れるわけでも無く、死の瞬間は誰でも平等に、ロウソクの灯が消えるよう静かに去っていく

 

日々積み上げたものはどこへ消えたのだろう?

 

また壮大なスケールのことを考えるとき、足し算だけでは気の遠くなるような忍耐が必要で、妄想できても達成できない

仮に忍耐を続けても、あなたが真実に気付く前に寿命が尽きてしまうだろう。

 

そのとき掛け算が役に立つ。それを使えばあっという間に壮大な規模の計算ができるのだ。

ただし0に何を掛けても、何で割っても0のままという事を忘れてはならない

 

思考に溺れ、妄想から抜けられない方(私を含め)のために、次の事を身体を使って体験してみてはどうだろう。

 

静かに座って背筋を伸ばし、目をつむって呼吸を意識しながら、

息を吐く時お腹が縮むから、頭の中で「縮み縮み」と実況中継し、

吸う時お腹が膨らむから、頭の中で「膨らみ膨らみ」と実況中継する。


あくまでも第三者的に呼吸を傍観していると、5回目くらいから、遅くても10回目くらいまでに、今を感じ続ける事ができず、気が付かない内に過去の出来事や未来のことについて思考が始まると思うよ。

 

この瞬間を意識し続けること、すなわち悟りがいかに難しいことかを思い知ることができる。

 

あなたが信じる哲学や宗教は悩める人々を助ける「術」にはならない事が多く、最悪さらに相手を混乱の中に追い込むだろう。

 

それはあなたの思考に基づいて仮定した世界観を押し付けているからに他ならない。

余計なお節介は、この瞬間瞬間を生きている全ての生き物にとって、はなはだ迷惑なのだ。

 

自分という存在は元々0であったにもかかわらず、知識や財を積み上げることで、立派な人物になった気にさせられるが、死んだらそれらはただのゴミでしか無い。

 

 

「才能は1%の閃きと99%の努力である」と言ったエジソンに反論するようだが、

 「人生は少しの努力とその大部分は運で出来ている」

 

生まれ持っている才能と巡り会わせ、すなわち「運」によって人生の大半が決められているのだ。

 

人々のやりたい事と出来る事は、大抵ズレているので、そのギャップを努力で埋めようとする。「平等な社会」という理想の根底にはそれがあり、努力が報われるかどうかは運によって決まる。

 

稀に努力という特殊な体験「術」として得とくする方もいるが、大抵は生活の糧を得るための、こじんまりした道具として使うのが関の山、それもあの世に行く何年か前には、非情にも我が身から去って行ってしまう。

 

それでも「我が人生には意味があるのだ」と言う人には、目には見えない崇高なものを信じる傾向がある。

 

信じるものは救われる」という言葉は、返済能力がないのに、カード決済でほしいものを先に手に入れるように聞こえるのは僕だけだろうか?

妄想だけが先走り、残りの人生でその境地に達するかは二の次というのはどこか無責任に思える。

 

仮にあなたが崇高な教えを手にしたとしても、救いを求め会いに来た方たちがたどり着くのは「個々の欲望」にほんの少し近づくぐらいな気がしてならない。

 

そのとき y=0を思い出す人は少ないのだろう。

 ならば究極のゴールzを定義しよう。


z=天国である。

ax+by=z という公式をつくると、

 

生まれてきたことに価値aを掛けて、死ぬことに意味bを掛けた結果、天国に到達するという有難い教えになる。

 

でも有難いという語源は、本来あるはずが無いという意味である。

 

今あなたが何歳であろうが、xとyの狭間にいながら、細胞が伸び縮みしている。

 

その状態を「生きている」というのだ。

 

どの命にも優劣はなく、人間なら何を着て、何を食べ、どこに住んでも、60兆個の細胞がこの瞬間伸び縮みしているだけ。

 

何人も同様に、他の命を栄養素として喰らい、肛門や尿道から排出される流れの中でしか生きられない。

 

一つひとつの細胞は遺伝子情報の指示通り生まれ、死んでを繰り返しながら、かろうじて生き残った細胞で肉体を維持している。


遺伝子のコピーミスや菌により病気になり、

判断の衰えからケガをし、

思考することを止めボケてしまう。

 

そんな儚い生命の関心ごとと言えば、自分の正しさを世間に認めさせることと多種多様な快楽の探求だけだ。

 

嘘だと思うなら、SNSにしたあなたの投稿を、他人の書いたものだと思って読んでみるといい。

 

無知を隠し、他人の話に耳を傾けず

自分の言いたいことだけを狭い価値観から綴っているのではないか?

醒めて観れば、つくづく恥ずかしくなってくるならまだ見込みはあるが・・・

 

 

「そんなこと言われたら何をすればいいの?」

 

答えは簡単である。

xからyの間でやるべきことはこの3つだと思う。

 

①好きだろうが嫌いだろうが、目の前に現れた他の命をリスペクトし、一定の距離を保ち、自然に任せて放っておくこと。

 

②その命が助けを求めたら、その時迷わず手を差し伸べること。

 

③放って置けず、たえず意識の中にそれが現れたら、目の前の為すべきことに集中する(故人に対しては祈る)こと。

 

生まれて死ぬことは特別なイベントではなく

 

無から起こった波動を体現(少しの努力)させ、

それが鎮まるまで自然(運)に任せることだと思う。

 

自然体で幸せを感じながら日々を過ごし、悩み苦しむこともなかったら、それ以上望むものはないからである。