なかなか人の行き来がスムーズに戻らないもどかしさが続きますね。

 

この一年、ミラーレス一眼を入手して、現在は写真を中心に配信するビジネスを試みました。

ただ有料デジタルコンテンツは、そこまでして見たいと思う人は殆どいないということがわかりました。
 

その答えを自分なりに考えてみました。

いつの間にかe-mailを使わず、Line やFBメッセンジャーでやり取りすることが多くなったと思いませんか?
使ったとしても Gmail や Yahooメールのような無料メールサービスが主流になっています。

 

なぜ企業はこれらを無料で開放するのでしょうか?

昔は人とのコミュニケーションにお金がかかりました。それがいまやインターネットに接続すれば無料で通話ができるだけではなく、海外ビデオ通話はもちろん、Zoomで会議までできる時代です。

Youtubeに至ってはテレビ業界を凌駕するがごとく破竹の勢いで躍進しています。

通信やコンテンツ配信は無料が当たり前の現代は、モノを地道に作ること、欲しいものが手に入るまで待つことは遠くに追いやられているように感じます。

 



そのコンテンツは、感覚に訴える刺激的なもの以外チョイスされない傾向にあり、個々の感性を通じてじわじわと味わうものは軽視されます。

インターネットも電話もなかった時代、通信は主に手紙で行われ、この頃は待つことの楽しみを皆が知っていました。手紙に手作りの竹細工の栞などが添えられるだけで、幸せを感じたんじゃないかと思うのです。


情報という早い乗り物は目的地に早く着くものの、旅の途中の情緒的な出会いはバイパスされてしまいます。
さりげない偶然を楽しむ余裕がなくなった現代は、時間をかけて何かを作る喜びや他人に歩調を合わせる余裕もなく、もしかすると利便性、効率性、特別者意識が私たちの心を蝕んでいるのかも知れません。

現代社会を何かに例えると、経済という名の養鶏所のかごの中にいて、収入というエサが目の前に来たら無心にそれを食べるニワトリのような生活環境ではないでしょうか。
施設の中のニワトリは、外敵に襲われる心配は少なくなったものの、己の感性で生きておらず、オーナの利益のために生かされているのです。

僕らはいつの間にかそんな世界から離れることが出来なくなっています。

リスクはあっても、自分の意思で動き回り、周りの環境に合わせ己を変化(成長)させながら、”運命のギフト”を得る喜びから遠ざかってしまったのです。

人間社会は少し複雑で、その中間層があるので気づきにくいですが、例え何かを選択するにしても、他人の作ったものをお金で買い選ぶ程度で終わりです。
この世に生まれた奇跡は、そんなもののために浪費されてしまって本当に幸せと言えるでしょうか?

 



いま時間をかけて作品を作りながら、僕は今までたくさんの方々の創作を軽視してきたことに気が付きました。

この先いくら時間をかけても、僕の作品は日の目を見ることはないのかも知れません。

負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、それでいいと思います。
さりげない日々の感動で人生は十分だと思うようになりました。

手紙でのやり取りをしていたころのように・・・