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思考の行き着く先

SNSで目立ちたいわけではないけど、自分の思考をまとめる事で、何か人生の役に立てば良いと思い、始めてみます。
自分が何を考え、何を思って生きるのか、言語化する練習をしていきます。

とあるYouTubeでこんなものをみた。

「可哀想アピールしてくる奴に付き合うな」

どうやらエネルギーを奪われるから人生にとってマイナスにしかならないとかなんとか。

なるほど。

ん?身近にそういう人いた気がするぞ。


「私、可哀想なんです」

そういえばホントに言われたことあるわ。

そう言われて以来、なるべく関わらないようにしていたが、本能的に関わってはいけないことを理解していたらしい。


さて、自分の身に何か不幸なことが起きたとて、自分のことを可哀想だとは思ったことがないので、自分が可哀想ってどういうこと?と考えてみた。


結論から言うと、「自分の人生を生きていない」というところに辿り着いた。

何故か?

それは、可哀想という感情は、基本的に、他者へ向ける感情だからだ。


例えば、ニュースで、ご飯を満足に食べれない子供に関する報道があったとして、「可哀想だなぁ」と思ったり、事故渋滞に巻き込まれてる人達に向けて「お気の毒になぁ」と思ったりすることがある。

その境遇に向けて、慈愛の心をもって、「可哀想」と想うのである。


じゃあ自分に何か不幸なことが起こったとして、可哀想と思うのか?

実際、思ったことはなく、運が悪かったとか、これくらいで済んで良かったとか、お金の問題で済んで良かったとか、そういう風にしか思ったことがなく、主観的にしか見ていない。

対して可哀想と思うのは、客観的に見た意見、感情である。

即ち、自分のことを「可哀想」と思うことは、自分のことを、自分のこととして、認識出来ていないということなのである。


あくまで、「可哀想な自分」を演じている「自分」という構図が成り立っているに過ぎない。

「可哀想な自分」という存在を、「他者」にして、「自分」の心の痛みから逃げているだけなのだ。


これは、自らの心の在り方にとって決定的なズレとなる上に、「可哀想な自分」という役割の存在が常に必要になる。

よって、「自分の人生を生きていない」と思うし、それは、自分の身に、常に「可哀想」なことが降り掛かってくることと同義でもあると思う。


辛い現実を見たくない、無意識下の自己防衛本能からきてるんだろうけど、結果として、そういう自分を自ら創り出してしまっていることに気付ければ、変われるのかもしれないね。