目を瞑っても状況はなにもよくならない。むしろ、次に目を開けた時、状況は悪化しているだろう。自分の目で見て、耳で聴いて、情報を分析して、やるべき事を見出す。それが前進する為の鍵だ。それを放棄してはいけない。


さて、このプロセスには大きく分けて2通りの手法がある。上記にある分析を意識的に行うか、または、無意識に行うかである。 意識的に分析するという事は出来るだけ多くの情報を収集し、関連付け分析し、そこから最善の答えを導き出すプロセス。 無意識に分析するという事は、五感を研ぎ澄ませ、集めた情報から何かを感じ取るという事。つまり直感で答えを導きだすという事だ。


どちらが正しいか? そこには答えはないのだろうが、私は後者、つまり直感や感性を大切にして生きてきた。 仮説であり、実証のしようもないが、私はこう思う。 ロジックで判断を下す場合、その答えを導き出す為に意識的に収集する情報量には限界がある。 一方、直感で判断する際対象となる情報は無限大で、その人の人生に置いて経験した事全てである。意識下で人間は自分の経験という情報を全て繋ぎ合わせ答えを導きだすのではないだろうか。


こういった仮説に基づき、私は経験を重視する(こう書くとロジカルに聞こえるが。。。)。 そして、経験を積む為には好奇心が必要だ。仕事一辺倒ではなく、オープンマインドで色々な音楽を聴き、映画を見、文化に触れる。好奇心を持ってどんどん新しい扉を開いて行く事が将来的には何らかの結果を生み出すのだ。


本日、現マイクロソフトの副社長の堂山昌司さんの貴重なお話しを伺う機会があった。 彼の言葉で最も共感を受けたのが"運なんてものは降ってくるものではなく、色々な可能性を掴みにいく個人の努力と行動力だ。だから私は好奇心を大切にしている。”というお言葉だ。 その言語を述べられた瞬間の堂山さんの目には一点の曇りも無かった。



先日のブログ でも本当に良い物が評価される土壌が整った事を書いたが、当然の事ながら、この“良い物”を提供するという事が結局のところビジネスにとって最も重要な事なのだ。

テレビ広告を代表とするマスマーケティング的メッセージに対するユーザーの信頼は日々下落の一途をたどっている。これは、たいして良くない商品やサービスをそれ以上に見せるという事を何百年にもわったって企業が繰り返して来た結果と言える。ユーザーは長くに渡って裏切られ続けた結果として、マス広告に大して不信感を抱くようになったのだ。 

ここでのポイントもやはり、良い物か否かである。 もし、企業が本当に良い物だけを創り上げ、それを広告していたとすれば、そこには何の偽りもないわけで、この様な状況を生み出さなかったであろう。 言葉を変えるならば、広告宣伝の趣旨が製品やサービスの本当の姿をユーザーに認知してもらう事でなければならないという事である。 それを良いところだけを伝える、過大によく見せるといったマーケティング手法がはびこってしまったが為にユーザーの脳裏にマス広告=話半分で聞いたほうが良いという図式が成り立ってしまったのだ。

勿論、これが全ての企業に当てはまるかというとそうではない。APPLEのように、素晴らしい商品やサービスを提供し続けている企業は今でもその発言に高い信頼度を維持している。 しかし、マクロ的に見ると、マス広告だけでのユーザーの購買行動を左右する力は減少方向にある。そこにいかにユーザーの声を絡めるかが重要になってきてる。

例えば、デジタルカメラを購入する場合を想像してみてほしい。
みなさんはどのように情報を収集するだろうか?

そう。多くの日本人は価格.comを見に行く。

最初のモチベーションは、どこに行けば最も安く商品が買えるかという情報かもしれない。しかし、さらに深い階層に入れば、そこにはユーザーの実体験や、商品に関する会話が存在する。 多くの人々はこのユーザー間の会話を読み、その情報を商品に関する真実であると認識し、購買行動が多少なりとも左右される。 場合によっては、30万円以上する液晶テレビの購買行動が、赤の他人の言葉で決まるわけだ。

ソーシャルメディアを介して、ユーザーが実体験を語るようになった今、それらのユーザーの声は、企業が多額の費用を費やして発信するテレビコマーシャルや新聞広告よりも大きな力を持っているといっても過言ではない。マスコミュニケーションはユーザーの認知を促す事には絶大な効力を発揮するが、購買意思決定に対する直接的な影響力に欠ける。対して、ユーザーの声は購買意思決定に直接的に働きかけるのだ。

masのブログ-購買行動までのフロー

こういった時代において企業はどういったマーケティングコミュニケーション戦略を立てれば良いのか? 
それを数回に渡って解き明かして行きたいと思うが、非常にシンプルにまとめると: 
(1)ビジネスの基本に帰って、本当に良い物やサービスををユーザーに届ける。これが出来ないとどんなに素晴らしいマーケティング戦略も無に帰ってしまう。いやそれどころかブランドに傷を付ける結果を招いてしまう事に繋がるといえます。 
(2)それをどう認知してもらい、買ってもらうか。ここでは企業がいかにソーシャルであるかが重要になってくる。

これを多くの企業が理解し実行する事により、世の中に良い製品やサービスが増る事を願いたい。






 



本当に好きな事をやって生きて行けている人ってどれくらいいるのだろうか? 

少し古いが、名著イノベーションのジレンマは現代の大企業病や縦割封建制度を非常にうまくまとめている。私も以前、感銘を受け、そのジレンマ潰すつもりで同じ志しを持つ仲間を集めて試行錯誤した経験がある。

しかし、企業が大きければ大きいほど、簡単に崩せる壁ではない。
それは、確立されたシステムとの戦いだからだ。

大企業には、出世の為に上の言いなりに本当にやりたい事は心の底に埋めて(そもそも無いのかもしれないが)視点によっては重要な歯車になりきる優等生達が多くいる。もちろんそれが個人の金銭的利益を最大化する為の正解なのかもしれない。なぜなら、そのロールを完璧にこなす事により、評価、出世といった個人に付与される利益があるからだ: ルーチンワークを正確に効率よくこなすルーチンワーカー達が高い評価を得るインセンティブの設計こそが、ひとつのビジネスモデルで成功した企業がそのビジネスモデルを効率的に回す事により最大の利益を上げるための仕組みなのだ。

音楽業界にたとえるとこうなる:巨大化したレーベルの提示するスキームにのっとり、あぁ、このミュージシャンは金儲けの為の音楽作っているんだなぁといった嫌な意図が見えてしまう音がある。それを米国では"SELL-OUT"と呼ぶ。魂を売ったという意味だ。長期的に見ると、そこにアートとして長く聴きつがれていくものはない。そういった音楽は瞬間最大風速的に大きな売り上げを上げるが、翌年には消え去ってしまうのだ。 しかし、レーベル側のマーケティングという視点で見るとそれはそれでひとつの成功例なのだ。そういう音を好んで聞く人々がいて需要と供給が成り立つのだから、立派なビジネスエコシステムの一員なのだ。

しかし、これはひとつのビジネスモデルが回り続けた場合の話である。


パラダイムシフトが起こると、ルーチンワーカーを効率よくまわす事を原動力としていた会社は動かなくなる。金儲けのルールが変わったのに、昔のルールでしか力を発揮できないからだ。ルーチンワークに長けた人間とクリエーティブワーカーは素質が間逆であるといわれている。ルーチンワークで成果を挙げてきた人間にクリエーティブワークを期待してもそこには成果は期待できない。企業は、新たなビジネスモデルを見出す事ができるクリエーティブワーカーが力を発揮できる土壌を作り直さなければならないのだ。この人的資源の欠乏が、すでに古いビジネスモデルで成功を収めている会社が新たなパラダイムシフトが来たときに生まれ変われない理由のひとつである。

また音楽業界に目を向けるとわかりやすいかもしれない。一秒間に2万曲が違法ダウンロードされるといわれるこの時代、消費者のメディア(CD)離れは進んでいる。また、MYSPACEやブログで音楽を無料で紹介し消費者の評価と口コミにより、本当に良い音楽が支持される土台が整った。いままでのマーケティング的音楽は次第にその評価を落としていくのではなないだろうか? 音楽業界はこれらの事象を消化し、そこに新たなビジネスモデルを見いださなければならない時が来ている。結果として本当に作りたい音楽を作るアーティストが増えてくれる事を願いたいところだ。


と、書いてみたものの、私の中には逆説もある:

===ここから逆説===

私は、ここ数年蔓延していたニューウェーブの焼き直しに嫌気が指している。どれも、全く進化のない焼き直しばかりで、元祖を超す物がなかったからだ。あれ?New Orderの新譜?とか思ってしまう音楽が非常に多かった。

New Orderと言えば、私が中学生の大好きだったニューウェーブバンドである。生まれて初めて掘り下げたくなったバンドかもしれない。Blue Mondayという曲が入った12インチを友人に貰いそこから全てが始まった。彼等の古いアルバムを次々に手に入れ、更には、New Orderの前身である、Joy Divisionに行き着いた。そしてその音との出会いに運命を感じたりもした。そこから私の音楽バカ人生が始まったのだ。掘り下げるという行為の素晴らしさに気付いてしまったのである。

思い返せばその当時インターネットもなくどうやって情報を集めていたのだろう?本屋に行ってJoy Divisionに関する本がある訳でもなく。Amazonだって存在しない。情報へのアクセスは困難きわまりない時代だった。ただそれが当たり前だったので不便にも思わなかった。まさにアナログな口コミの連鎖で情報が届いてくるという世界だった。まさに一期一会であり、その当時、偶然行き着いた音に私は真剣に時間をかけて接していた。その当時Joy Divisionに私が行き着いた事により、世界は変わらなかったが、あるレコード屋の売上げはほんのちょっとだけ上がり、私のその後の音楽人生は大きなターニングポイントを迎えた。

この話はインターネットの到来により世界の何が変わったのかを理解する一つのヒントなのではないだろうか? インターネットがあり、情報へのアクセスがいとも簡単になった。例えば、AMAZONの協調フィルタリング(消費行動のマッチングを利用したおすすめ)を介して自分にマッチした音との遭遇率は確実に上がった。逆に音に出会うのに必要な時間と労力の投資は激減した。これにより、人はその音を理解しようとする努力をしなくなったのではないだろうか? この現象を金額に換算して分かりやすいように言い換えるとこういう事だ。1万円払って買ったCDにはその自分の払ってしまった対価に見合う効用を求めようとして人は時間を書ける。しかし、友人にただでもらったCDはさらっと聞いて、いまいちであればそれで納得しそれ以降いっさい聞かなくなる。つまり、アクセスが簡単になり、出会いは増えた反面、その出会い一つ一つに対する真剣度は確実に低下しているという事だ。そうなってくると、キャッチーで解りやすい物のほうが受け入れられるという現象はより強くなり、何度も聞くうちに根を張る音は根を張る前にフィルターされてしまう世の中になったシフトしている可能性が高いのだ。

ま、極論ですが。。。 怖いです。

と、どんな事象も見方が変われば仮説=考え方が大きく変わるというのが今日の私の唯一の結論です。。。ある意味、今我々が体験しているこの大きなパラダイムシフトがどういった結果を生み出すのか大変面白い事象を実体験できている我々は幸せですね。