メルキゼデクとアブラハム
『創世記』によれば、アブラハムがエラムの王と盟友による連合軍との戦いに勝利し、
彼を祝福するためにメルキゼデクはパンとぶどう酒を持って現れる。
「天地の造り主、いと高き神に
— 『創世記』 14:19~14:20、新共同訳
アブラハムは祝福されますように。
敵をあなたの手に渡された
いと高き神がたたえられますように。」
この記述は、アブラハムの子孫にはカナンの相続権が確約されているとする
伝統的な教義の下地になっている。
だが、この経緯にまつわる一連の描写から読み取れることは、
アブラハムとメルキゼデクが互いに敬意をもって接していたこと、
両者の宗教的な信条(至高の神に対する信仰)が一致していたことくらいであろう。
それどころか、アブラハムの神とメルキゼデクの神それぞれの様式の微妙な相違を
双方ともが認識していたとも受け取れるのである
メルキゼデクの名前は『創世記』だけでなく、『詩篇』においてもわずかながら触れられている。
主は誓い、思い返されることはない。
— 『詩篇』 110:4、新共同訳
「わたしの言葉に従って
あなたはとこしえの祭司
メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
「至高の神の祭司」「義は我が王」という名前の「サレムの王」が、
イスラエル人の先祖であるアブラハムを祝福
サレムの王(=平和の王)であり司祭
後の名前はエルサレム
永遠の祭司、正しい王
1:ヘブライ人への手紙/ 07章 01節
このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、
王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。
2:ヘブライ人への手紙/ 07章 02節
アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。
メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。
3:ヘブライ人への手紙/ 07章 03節 (この部分をどう見ればいいのか?)
彼には父もなく、母もなく、系図もなく、
また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。
4:ヘブライ人への手紙/ 07章 04節
この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。
族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。
5:ヘブライ人への手紙/ 07章 05節
ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、
同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、
律法によって命じられています。
6:ヘブライ人への手紙/ 07章 06節
それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、
約束を受けている者を祝福したのです。
7:ヘブライ人への手紙/ 07章 07節
さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。
8:ヘブライ人への手紙/ 07章 08節
更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、
他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。
9:ヘブライ人への手紙/ 07章 09節
そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、
アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。
10:ヘブライ人への手紙/ 07章 10節
なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、
レビはまだこの父の腰の中にいたからです。
11:ヘブライ人への手紙/ 07章 11節
ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、
――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――
いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、
メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。
12:ヘブライ人への手紙/ 07章 12節
祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。
13:ヘブライ人への手紙/ 07章 13節
このように言われている方は、
だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。
14:ヘブライ人への手紙/ 07章 14節
というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、
この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。
15:ヘブライ人への手紙/ 07章 15節
このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。
16:ヘブライ人への手紙/ 07章 16節
この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。
17:ヘブライ人への手紙/ 07章 17節
なぜなら、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。
18:ヘブライ人への手紙/ 07章 18節
その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。――
19:ヘブライ人への手紙/ 07章 19節
律法が何一つ完全なものにしなかったからです――
しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。
わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。
20:ヘブライ人への手紙/ 07章 20節
また、これは誓いによらないで行われたのではありません。
レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、
21:ヘブライ人への手紙/ 07章 21節
この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。
「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」
22:ヘブライ人への手紙/ 07章 22節
このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。
23:ヘブライ人への手紙/ 07章 23節
また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、
務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。
24:ヘブライ人への手紙/ 07章 24節
しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。
25:ヘブライ人への手紙/ 07章 25節
それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、
御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
26:ヘブライ人への手紙/ 07章 26節
このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、
もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
27:ヘブライ人への手紙/ 07章 27節
この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、
次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。
というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。
28:ヘブライ人への手紙/ 07章 28節
律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、
律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。
<追記>
「父もなく、母もなく、系図もなく、
生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司」
聖霊によって生まれた者の意味?もしくは後のイエス様の形に似た者?
(場所はモーセさん辺りが来る前のあの地域)
祝福したのは旧約だと
メルキゼデク王とか
イサクさんからエサウさん、ヤコブさん
バラムさん辺り( ただ後にミディアン人を使って?バラムさんの策略によりイスラエル人を惑わせた )
メルキゼデク王がどういう立ち位置だったか
律法のなかった時、アブラハムさんは主に選ばれ、主の言葉を聴いてすごした
書かれている範囲ではメルキゼデク王はそれよりさらに前
アブラハムさんは神に選ばれた故にアブラハムさんが初めになった
そのアブラハムさんよりさらに前で完全に契約外、
アブラハムさんが選ばれた故に、と同じ考えで行けば、
神の厚意によってただ1人選ばれた故に、父、母、系図がなく、
神によって生きる事が許される故に命の終わりがない?
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ちょっと面白そうだったもの
一応もじりらしいが↓
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イエシュアの十字架の碑文
チャック・ミスラー著(著書「時空を超えた創造者」より)
タナッハ(私たちの旧約聖書)全体には、勤勉な学者を魅了する魅力的なアクロスティクスやその他のテキストの特徴がたくさんあります。 新約聖書には、一般には気づかれないヘブライ語のアクロスティックもあるようです。
アクロスティックという言葉の意味: 行の最初、場合によっては最後の文字が順番に読まれ、名前、文、またはタイトルを形成する詩の構成。
イエスが十字架につけられたとき、ピラトは十字架に釘付けされたしるしを書きました。 彼が選んだ特定の文言はユダヤ人の指導者らを不快にし、彼らは彼にそれを変更するよう求めた。 彼は拒否しました。 この事件には、英語翻訳では明らかになっていない興味深い側面がいくつかあります。
「そこでピラトは題名を書いて十字架につけました。その文字は『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』でした。」 それからこの題名は多くのユダヤ人に読まれました:イエスが十字架につけられた場所は街の近くにあったからです:そしてそれはヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語で書かれていましたそれからユダヤ人の祭司長たちはピラトに言った、「書いてはいけない、 ユダヤ人の王だが、彼はこう言った、私はユダヤ人の王だ。』 ピラトは答えた、「私が書いたことは私が書いたことです」。
ヨハネ 19:19-22 (口語訳)
ピラトは自分が作成した碑文を改訂することを拒否しました。 これは、英語の翻訳で明らかなよりも重要な意味を持つ可能性があります。 ヘブライ語の碑文を以下に示します(ヘブライ語は右から左に読むことに注意してください)。
ハ・イェフディ・ム・vメレク・ハナザレイ・イェシュア
YHWH
どうして?
イェシュア・ハナザレイ対メレク・ハイェフディム:ナザレイのイエスとユダヤ人の王。
英語の翻訳で気づかないのは、各単語の最初の文字で構成されるアクロスティックがヤハウェ (YHWH) を綴っていることです。
ハーバート・F・スティーブンソンは、「名前の正確な意味は不明瞭である。ヘブライ語では、元々は4つの子音YHWHで構成されており、神学者には「テトラグラマトン」として知られており、後にアドナイの母音が追加されたという。 (名前がアドナイに結合される場合を除き、エロヒムの母音が使用されます。)しかし、ユダヤ人はこの名前を神聖すぎて発音できないと考えるようになり、公の聖書朗読ではアドナイをその名前に置き換えました - 確かにエホバはそうでした 彼らにとっては『伝わりにくい名前』なのです。」
もしピラトが彼らの要求どおりにそれを書き直したとしたら、神の御名は綴られなかったでしょう。 ピラトはそのことに気づいたでしょうか? それは意図的でしたか? 彼はユダヤ人の指導者たちを動揺させるためだけにそうしたのであり、それが彼を羨望の対象にしていると彼は悟ったのだろうか? (マタイ 27:18)。 それとも、ここでは以前に思っていた以上のことが起こっているのではないかと疑い始めていたのだろうか?
墓の特別警備を要請したときも、「できる限り確実にやってください」と謎めいた返答をした。 (マタイ 27:63-66)。 彼はそれはどういう意味だったのでしょうか/彼はイエスが本当にイエスだと言った人であるのではないかと疑い始めましたか? イエスが3日後に復活したとき、ピラトは本当に驚いたでしょうか。 不思議に思う人もいるだろう。
聖書の本文には他にも非行為の例がたくさんあります。 たとえば、エステル記では、神の名前は本文中に完全には登場しません。 しかし、それはエステル記のテキスト全体の多くの場所でアクロスティックとして隠されていることがわかります。 エスターという名前は「隠されたもの」を意味するので、これは驚くべきことではありません。
上より
罪状書きのヘブライ語文を「ישוע הנצרי ומלך היהודים」(Yeshua` haNotzri u'Melech haYehudim「ナザレ人にしてユダヤ人の王イエス」、 IPA: [jeːʃuːɑʕ hɑnːɑʦeri meleχ hɑjːəhuðiːm])と表現される場合もあるが、これは後世の再翻訳で、頭文字が神聖四文字(יהוה, YHWH)と同じになるように微妙にもじったものと思われる。そもそも『ヨハネによる福音書』に見られる「ヘブライ語」はヘブライ語ではなく当時のパレスチナ地域の共通語であるアラム語であった可能性は高いと考えられている。
カトリックの人から
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>> 換言すると、そういった入手可能なあらゆる証拠が、
「ペシータは後期翻訳であって、原写本ではない」ということを提示しています。
ペシータ優位性、もしくはアラム語優位性というのは
確固たる証拠や学術性によって支持されている説ではありません。
アッシリア東方諸教会の伝統的見解および、
メシアニック・ユダヤ教やヘブル的ルーツ運動(HRM)のある一角が
ペシータ優位性を唱えていますが、にもかかわらず、
新約聖書は元々アラム語で書かれてはいません。
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アッシャーの年表の年代
- 紀元前4004年 - 天地創造[1]
- 紀元前2348年 - ノアの洪水
- 紀元前1921年 - アブラハムの啓示
- 紀元前1491年 - 出エジプト記モーセとユダヤ人のエジプト脱出
- 紀元前1012年 - エルサレム神殿の設立
- 紀元前586年 - バビロン捕囚の始まり
- 紀元前4年 - キリスト誕生