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つらつらと綴る日々の思い

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今日から、この夏の出来事を日を追って書いていこう。

2019年7月26日
私の誕生日。
この日から、二人そろって天へ旅立つストーリーが始まる。

この日は、施設にいる父の病院への定期検診日。
父は施設から連れて行ってもらい、家族は病院で合流する。今までは、母が一人で行ってくれていたが、メンタル的にも体力的にも心配だから私も一緒に行くことになった。

体調不良でしばらく施設に顔を出せていなかった母は、馴染みの施設の方に、いざとなったら看取りまでしてもらえるのかということを尋ねていた。父が、ここのところ飲み込みも、自力での排泄もできないことを聞き、長くないと思ったからだろう。

この日の、医師の診断は、内臓の機能が著しく低下している。今度、誤嚥性肺炎を起こしたら、延命をどうするかを話し合っていく必要があるということだった。

母は、姑を看取った経験から、口から食べれなくなったら長くはないとわかっていたと思う。

しかし、このときは、自分も同じように残りわずかの命であるとは、わかっていなかったであろう。

母は、翌週に、ようやく地元の公立病院に検査に行くことになっていた。


7月29日
近所の内科医にもらった紹介状をもって、公立病院へ。食欲がなく、痩せたことを重視されたのか、消化器外来へ。
CTと血液検査。

CTの画像は、素人の私が見ても、「もう、ダメですよね。」って思えるものだった。

肺と肝臓にそれぞれ5センチくらいの影があり、1センチ前後のリング状の影が無数にあった。

リング状のものは、転移の時にできるものなので、原発は別にあるであろうということで、翌日に胃、その翌日に大腸の内視鏡をやることになった。通院で。

今思えば、この2つの検査は、母に辛い思いをさせただけだったのだが、このときは母も私も医師の言われるままにその検査を受け入れた。

胃の検査は、まだよかった。

7月31日
大腸の検査のために、水を定期的に大量に飲み、便を出し切る準備を、自宅でしているうちに、母は、すっかり弱ってしまい、歩くこともままならなくなってしまった。

なんとかかんとか、検査を終え、帰宅すると、父が施設から病院に救急搬送されたという連絡が入った。

母を寝かせ、急いで、父の病院に向かった。


ちなみに、
家を継いだ弟は、現在、喫茶店を一人でやっていて、なかなか休めないので、休みの日や大きな決断が必要なときだけ動くことになっていた。

なので、衝撃的なことをはじめに受け止めるのは、いつも私であった。

父は、やはり、飲み込みがうまくいかず、肺炎を起こしたようだ。入院することになったが、今後のことを後日話し合うために弟とくるように言われた。

この日、私は、弱り切った母に付き添い、もはや、生きているだけに見える父に会い、、、
いろいろ覚悟しつつも、途方にくれていた。

今日は、ここまで。






昨日は、週末の忌明けの法要の準備を実家でしていた。
お客様用の湯飲みやら仏壇の御膳の食器などを探していた。
必要なものはなかなか見つからず、出てくるのは無数の桐箱。
近所の陶器ギャラリーから買ったもの。
確かに味わいのある器たち。

なんだか、悲しくなってきた。

こうやって、こっそり好きなものを買い、ため込むことで、しあわせだったのかな?

私から見ると、そのギャラリーの人にのせられて、買わされてるとしか思えない。

使うことなく、あちこちにしまい込まれたものたち。

貧しかった母は、少しお金ができたとき、でも、自由がなかったから、こういうことしか楽しみがなかったのかもしれない。

昨日は、いろいろ考えてしまって、このブログの続きが書けなかった。

今日は、ここまで。
父が施設に入って15年。
母は、週2回は会いに行き、大好きなプリンなどを食べさせたり、好きな歌を歌ったりしてあげていた。

誤嚥性肺炎での入院等を経て、話すこともままならなくなり、娘である私のこともわからなくなっていても、父と母は、コミュニケーションが取れているようだった。

しかし、今年になって、父は完全にゼリー食になり、誤嚥の危険性がたかくなったので、私たちが好きなものを食べさせることはできなくなった。
食べることが大好きな父は、私たちが行くと何か食べさせてもらえると思って要求した。母もそれが辛かったのかもしれない。

そして、母も風邪をひくと長引き、父のところに行くことがなかなかできなくなった。今、思えば、この頃から癌ができていたのだと思うが、私も弟も、「歳だから」とか「精神的に落ち込んでるから」と考えてしまっていた。


今日は、ここまで。

こんな重いブログ、読んでいただいてありがとうございます。