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つらつらと綴る日々の思い

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父が念願の城を建てて10年経った頃、珍しく自転車で飲みに行った父は、酔っ払って自転車に乗って転び、朝まで誰にも見つけてもらえなかった。幸い命に別状はなかったが、頸椎を損傷した。

もともと気持ちの弱い父は、医師の「このままでは、10年後歩けなくなるかもしれない」という言葉に怯え、しなくてもよい手術をした。結果、痛みは、以前よりひどくなり、精神的に病んでしまった。

すでに寝たきりの姑を自宅で介護していた母は、二人の介護をすることになった。

私は、すでに嫁いでいて、仕事が忙しかったこともあり、手伝ってあげることもほとんどできなかった。
弟(次男)は、時々半狂乱になる父を抑えたり、精神科に連れて行ったりしていた。
家に縛られて、嫌な思いをたくさんして、それでも家を飛び出さない弟に、今でも私は負い目を感じている。

どんなによくしても憎まれ口を言い続ける姑と、歩くこともままならない鬱で暴君の夫、二人の介護に明け暮れた母は、体をこわして入院した。

そして、結局、母と弟は、父を施設に入れる決断をした。

父が入った施設は、家から車で20分ほど。
母は、週に2回必ず、父のところに通った。
始めのうちは、リハビリや治療で回復できるのではと希望をもっていたが、父は、どんどんおとなしくなり、弱っていった。

父が施設に入って2年後、祖母は亡くなったが、そのときには、父はもう家で介護できる状態ではなかった。

今日は、ここまで。
いわゆるバブル期。
我が家の家業も好調だったのか、
この頃の両親は、海外旅行やら豪華客船クルーズやら、まわりの方のお付き合いで派手な生活をしていた。
そして、念願の事務所件自宅のビルを新築。ちょうどその頃結婚が決まった私の居場所はなく、仕事のフロア、自分たちの住まいのフロア、跡継ぎとなった次男のフロア、最上階にはサウナ付き展望風呂。
銀行にそそのかされて、お金を借りまくり、勘違いした豪邸。のちに、その返済に、次男が苦しめられることになるとは知らず。

長男の死後、跡継ぎとなることを強いられた次男は、一浪後、遠方の大学は合格した。しかし、「外に出すと家を嗣がなくなる」ことを怖れた父は進学をゆるさず、そのまま自分の会社に入れた。
かつて、祖父は、父の兄二人が高校進学したことで、家業を継がなかったので、三男である父を合格していた高校に行かせず丁稚奉公に出した。
そのことで、祖父や兄を恨んでいた父は、わが子に同じことをした。
次男は働きながら専門学校に通い、建築士の資格を目指し、しかし、一級を取った頃にはバブルも弾け、父の会社は、その本業では立ち行かなくなっていた。

家業に縛られたことを恨みながらも、それに固執し続けた父の生き方は、私には哀れにしか思えなかった。


今日は、ここまで。


母は、
とても明るく世話好きな人だった。
自分の子以上によその子のお世話をしている人だった。

とても働き者だった。
時には仕事より趣味を優先していた父の分まで働いていたと言っても過言ではないだろう。

とても我慢強い人だった。
どんなに虐げられても、姑を94歳で亡くなるまで自宅で介護した。

私は、母に甘えた記憶は、あまりない。
幼少期の私が、唯一母に遊んでもらった記憶は、
ボサボサになった「いずみちゃん(リカちゃんの友達)」の髪の毛を綺麗に直してくれたこと。
他にもあるのだと思うけど、物心ついてからはそんなものである。

父は、
「女に学問はいらん!」と私の進学には反対だったが、
母は、
「自分は学のない田舎者なので、この家から出ていくこともできない。だから、あなたは、一人で生きていけるように、学歴と資格を。」と言って、応援してくれた。
家から通える国公立しか受験することも許されない。もちろん浪人はない。そんな状況で、こっそり塾に行くお金を出してくれたのは、母だった。

母がこんな父にどうして縛られているのか、全く理解できなかった。
私から見れば、父は、妻や子供のことなんか、「養ってやってる」くらいにしか思っていない最低の父親だった。


今日は、ここまで。