パリの攻防戦(フォトエッセー ジャンヌダルクより) | ザスタのクマさん

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ジャンヌの再三の懇願にも関わらず、

国王とその軍は、サン・ドニを頑として動かなかった。

実は、ジャンヌには内緒で、1429年8月28日、

親英ブルゴーニュ派と4ヵ月の休戦条約を結んでいた。

これを聞いた、イギリス軍の総司令官ベッド・フォード公は、

自軍の指揮をブルゴーニュ軍に任せ、パリからルーアンに退却した。

千載一遇のチャンスが、フランス側にもたらされ、

1429年9月8日 ジャンヌは国王軍なくして、

敵総司令のいない、士気の下がったパリの敵軍に攻撃を仕掛けた。

攻撃は正午から日没まで続いた.ジャンヌは腿に矢を受けても、

なお攻めようとしたが、兵の疲れを心配した貴族達が

兵を引き上げ始め、彼女も無理矢理陣へ連れ戻された。

翌日、出陣しようとするジャンヌに国王からの撤退命令が出された。


 現在、ジャンヌが矢を受けた場所と言われる所には、

彼女の金色の銅像が建っている。



タイトル 輪回転生、不死鳥ジャンヌ 撮影 熊谷





今回は特別に地図を載せてみます。




 ランスにおいて、神の祝福を受けフランス国王となったシャルル7世にとって、

ジャンヌへの利用価値は半減した。フランスの頂点にたった彼とその側近達、

そして、陰から彼女を援助し続けた王妃の母ヨランド・ダラゴンまでもが、

今や、フランスでは国王をしのぐ名声を持っているジャンヌに対して、

警戒心を抱くようになっていた。

王族の権威と自己保身の為にはジャンヌを失敗させ、

大衆の目の前で恥をかかせる必要があった。

また、ジャンヌがフランス軍による略奪を禁止したので

国王と側近達は度重なる出兵と戦にかかる軍費に、

自らの贅沢な生活を続けられなくなる事と、財産の目減りを心配し、

国家の解放統一よりも、一族の利益を優先させたのだった。

フランス民衆のために立ち上がったジャンヌ達とフランス王家の、

大きな溝が、このパリの戦いで明らかになっていく。

 明晩は、大事な読者のサイラさんから、もたらされた基本的な疑問、

なぜ、ジャンヌをテーマに選んだかについて触れたいと思います。


熊谷