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579年前の昨日、1429年9月8日、木曜日、時差を考えると日本では本日。
ジャンヌ・ダルクは仲間と共に首都パリを奪還すべく、
サン・トレノ門(ほぼ現在のパレ・ロワイヤル付近)に攻撃をしかけた。
彼女は、勝勢のまま、防衛態勢の整わぬ首都パリを一気に奪還し、
イギリス軍の息の根を止めるつもりでいた。
ところが、陰で進められていた和平交渉が彼女の足を引張った。
イギリス側とブルゴーニュ派は反撃準備の為に、とにかく時を稼ぐ必要があった。
去る、戴冠式から1ヵ月余りたった1429年8月23日、
国王シャルル7世の命令を待たずに、ジャンヌはついにパリに向け軍を動かす。
これを聞いたほかの貴族たちも続々と彼女に同調し、
国王も渋々重い腰を上げる。ところが国王は、
奸臣トレムイユとともに、すでにジャンヌを裏切っていたのだった。
パリ返還を条件に、イギリス軍のパリ以外の占拠をしばしの間認め、
休戦協定を結ぶつもりでいたが、パリが返ってこないと知ると、
ブルゴーニュ公にはとりあえず休戦条約を結ぼうと、使者を送っていた。
26日、ジャンヌは、パリ北方のサン・ドニに到着した。
その後しばらくして、国王は先祖の墓所であるこのサン・ドニに陣を張ったが、
決して、兵を動かすことはなく、そして、ジャンヌ達を見殺しにしたのだった。
現在、サン・ドニは正確にいうとパリ市内ではないが、完全に町続きで、
いまやパリの一部といって差し支えないかもしれない。
サン・ドニの大聖堂は歴代の王家の墓所で、
639年から約1200年間の遺体が収められていたが、
大半はフランス革命の際に、棺から引き出され穴に埋められてしまった。
1817年になって収集されたが、
身元の判別が困難になり、共同納骨所に収められている。
革命中処刑されたルイ16世とマリー・アントワネットは
幸い、別の教会墓地に埋葬されていた為、
現在、大聖堂の地下に眠っている。
ジャンヌゆかりのものは残念ながら、入り口付近にある壁画のみで、
のちに国王の命令で無念の撤退をする時に、
この大聖堂に純白鎧兜一式と、この戦いで敵から奪った剣一振りを奉納して、
後日の戦勝の祈願をしたが、それら記念の品々も今は残っていない。
そして、からっぽの棺の美しい彫刻が、歴史の虚しさを感じさせる。
弊社制作のフリーペイパー、『イマジン』(2000~2003)のイメージキャラクターとして、
ジャンヌ・ダルクのイメージカットを撮り始めて7年、写真集にしようと決意しフランス取材を
始めて4年もの月日がたってしまった。そろそろ年内くらいには、出版のめどをつけなければ、
という事で明晩も、ジャンヌの特集を考えております。
熊谷