書呆子のブログ -91ページ目

琳派展とNODA MAP 赤鬼

昨日は夫と三越の琳派展に行った後、シアターコクーンでNODA MAPの『赤鬼』を観た。

尾形光琳といえば、MOA美術館にある『紅白梅図屏風』を、2001年2月に香港赴任前ということで、夫と私の両親と熱海に旅行して見たのを思い出す。この作品は、梅祭りの時期しか公開しないのだが、川を配した構図にいろいろな含意があるらしい。
また、俵屋宗達の『舞楽図』は三島由紀夫が絶賛した作品だ。

野田秀樹の作品は、『透明人間の蒸気』以来。
異質なものを排除することによって自分たちのintegrityを保とうとする人間の冷酷さ、【バベルの塔を超えて】という小西のせりふに象徴されるように(しかし、バベルの塔と言語の関係って今の若い人はどれくらい知っているのか)、異文化理解の難しさを、いつもの絢爛たる言葉遊びの中に描いていた。

小西真奈美は、つかこうへいの『寝取られ宗介』『熱海殺人事件』草剛がヤスをやった『蒲田行進曲』の小夏役等を見て、いい舞台女優だと思っていた。
確か、金八先生の第5シリーズで兼末健次郎の姉の役で(といってもスキー事故で死ぬ回想シーンのみ)出たのがドラマで見た最初だが、その時は、理科教師役の山崎銀之丞つながりかと思ったが、その後はトレンディドラマに出ずっぱりだが、本来舞台女優として才能を持った人だから、今回『ホットマン2』の妹役を伊東美咲に譲っても舞台に戻ってきてくれたことはうれしい。

大倉孝二を舞台で見るのは、2002年『彦馬がゆく』以来、長すぎる手足を自分でもてあますような演技は健在。

劇場で市川実和子を見かけた。TVで見るとおりだった。

『走れメルス』も楽しみだ。

裁判員制度導入への懸念

一、はじめに
裁判員制度を導入する法案が3月はじめに閣議決定された。
これは、司法制度改革の一環として、大きな意義を持った制度だと考える。第一に、現在一般市民生活から隔絶されているような印象のある司法過程への市民の参加を可能にする。第二に、検察官が有罪率を確保することに組織の存在意義をかけ、被告人の「無罪の推定」という建前とはかけ離れている刑事裁判実務を是正することができる可能性がある。
しかし、裁判員制度は両刃の剣である。法の素人である市民が判決に参加することに伴う、素人であるが故の良い点ばかりでなく、悪い点の影響も考慮する必要がある。つまり、素人が被告人の人生(時には生死まで)を決定することから生じうる問題をミニマイズできるような環境が整備されていなければ、却って裁判への信頼を損なう結果になりかねない。その観点からは、残念ながら現状の環境はあまりにも不備であると言わざるをえない。本稿では、市民の裁判への参加という点で最も進んでいる(弊害も進んでいる)アメリカの制度と比較しながら、裁判員制度導入に不可欠な環境が現状ではいかに欠けているかについて論じる。

二、日本の問題点
第一に、裁判員の予断を排除する制度の不足である。素人である裁判員に予断や偏見を抱かせないようにするためには、ミスリーディングな証拠を証拠調べから完全に排除しなければならない。それらが少しでも裁判員の目に触れたり耳に入ったりしただけでも危険である。そこで、アメリカでは、日本よりもはるかに詳細な証拠法則が発展しており、証拠法則上、様々な証拠・証言(たとえば、責任保険、事件後の修繕・改善、示談交渉等)が「証明力よりも予断や偏見を陪審に与えるという弊害の方が重大」と判断されて定型的に排除されている。それに対して、日本の証拠法は、法廷に素人の判断者がいないため、証拠法はさほど細かく規定されていない。予断を抱かせるような証拠だとして反対当事者が異議をのべ、裁判官の判断で異議を認めるかどうかが判断されるケースが多いが、その状態で裁判員を法廷に入れると、そうした悠長なやりとりを裁判員が逐一見ていることになり、たとえ排除されてもその証拠の印象を拭うことは難しいであろう。
第二に、争点の整理を可能にする制度の欠如である。アメリカでは、陪審の拘束を最小限にとどめるため、disclosure制度が徹底されており、当事者が事前に証拠や証言の整理や打ち合わせを入念に行っているが、日本の現行刑事訴訟法ではそれは難しいであろう。
第三に、犯罪の構成要件が米国ほど細分化されていない。アメリカでは公判により論点が可能な限り整理され、裁判官が陪審に何を判断すればいいか説示する際には、単純な事実認定の問題に絞られているのだが、それも、日本なら、たとえば殺人罪第199条という一つの条文が適用され、情状による量刑については裁判官に広範な裁量が与えられている行為について、多くの類型が刑法上規定されているから可能なことである。たとえば、ニューヨーク州刑法では、第1級謀殺だけで9つの類型があり、他にも第2級謀殺、第1級殺人、第2級殺人等、全部で10種類以上の異なる構成要件が存在するので、陪審が判断することも単純化されているのである。
第四に、犯罪報道の問題がある。典型的に予断や偏見を抱かせる証拠として米国ではもちろん日本でさえも、原則として排除されているものに「悪性格の証明」があるが、日本では、犯罪が起こると、報道機関が犯人の近所の人に「彼(女)は日頃どんな人でしたか?」と聞いて回る様子がTV映像で毎日垂れ流されている。不法行為上の名誉毀損が日本よりはるかに成立しやすい米国にはそれほどないことである。報道規制は表現の自由との関係でしないことになったため、裁判員はこうした予断・偏見情報に常に晒されることになる。
第五に、裁判官が合議に加わるという点である。日本人はどうしても専門家の意見を重んじるという考え方をする傾向がある。先日、筆者の契約法講義の受講生にアンケートをしたところ、裁判員になりたいか否かについては、「なりたい」、「どちらかといえばなりたい」が計22%に対して、「どちらかといえばなりたくない」、「なりたくない」と回答した者は78%おり、その理由の主なものは、「知識もないのに他人の一生を左右するのは責任が重過ぎる」ということであった。そして、「あなたが刑事被告人になったら(選べるなら)裁判員の参加による判決を望むか、それとも裁判官だけに判決を出してほしいか」という質問については、裁判員を望むのが34%、望まない者が66%となり、その理由としては、「法律知識や経験のない人に裁かれたくない」というのが一番多かった。これでは、合議において、裁判員が裁判官の意見をご尤もと受け入れてしまう可能性が高いと思われる。
そのような状況で、裁判官は、裁判員がプロである自分に意見に引きずられることなく公平な議論ができるようリードしなければならないが、そうした技能は裁判官が従来の司法研修所で受ける教育では養成できるものではない。
第五に、現実に裁判員を務める層の偏りである。会社員の場合、裁判員のための休暇を認めなかったり休暇をとったために不利益を課す会社には罰則が科されるが、会社と従業員の関係ほど本音と建前が乖離したものはなく(例:有休休暇の消化不能やサービス残業)、結局、会社員等のフルタイム・ワーカー以外の層ばかりが裁判員を務める事態が予想され、誤解を恐れずに敢えていえばそういう層こそ前記の偏見報道により多く晒されている人たちなのではないのか。
第六に、裁判で実現される正義は、男女差別関係の訴訟のように、世の中の大勢より一歩進んだものであるべきこともあるが、裁判員制度ではそれが不可能になるおそれがある。特に、強姦被害者による加害者殺害の正当防衛の成否を争う事件で「本当に貞操観念があれば逃げられたはず」等の伝統的な女性観をもつ裁判員が大勢を占める場合にどうなるか。
裁判員制度を推進している日弁連からして、残念ながらこの点では疑問視される点がある。というのも、日弁連製作の裁判員宣伝ドラマ「決めるのはあなた」の中で、議論が煮詰まってきたので、「休憩してお茶でも飲みましょう」という場面があったのだが、驚いたことに、女性裁判員(しかも、「私は結構です」といって飲まなかった女性看護師を除く女性全員)だけがコーヒーを淹れに立ち上がり、男性裁判員はただの一人も手伝おうとしないのであった。男女共同参画社会基本法が施行されて久しく、しかも裁判員制度に関する啓蒙ドラマなのにこのようなシーンを作ってしまう日弁連の見識を大いに疑うが、このことからも、裁判員による判決がジェンダーが争点になっている事件で必ずしも公正なものにならないことは、容易に想像されることなのである。
これらの多くの問題が2009年の実施までに解決できるのか、残念ながら疑問視せざるをえず、制度導入に懸念を抱かざるをえないのである。


総合職第一期生が大学教師になるまで


1.はじめに
昨年の6月から私の職場になった大学の研究室の窓からは、美しい北アルプスの山々が見える。東京のゼロメートル地帯といわれる下町で育った私には、職場から山並みが見えることそのものが新鮮な体験であり、いつまでも見飽きることはなく、同時に今ここに自分がいること自体が不思議に思えてくる。
私は1987年に銀行に女性総合職第一期生として入社し、企業派遣の制度により米国のハーヴァード・ロー・スクールおよび英国のオックスフォード大学への留学を経て、約14年間銀行法務や国際業務に従事してきたが、2001年に夫の在香港日本国総領事館への転勤に伴い銀行を退職、外交官夫人としての公務の傍ら香港大学で3つめの法学修士号を取得し、夫の本省への転勤とともに一昨年暮れに帰国、外資系コンサルティング会社に数ヶ月勤務後、昨年の6月から本学で助教授として教鞭をとっている。
現在は2年生以上の担保法、ジェンダーと法と1年生向けの法学入門コースを担当しているが、先日オムニバス形式の共通教育(昔の一般教養)科目で、学者になった経緯について話す機会があった。その内容を中心に、銀行員から学者に転進した心境についてお話させていただきたい。

2.なぜ学者になったのか
(1)バブル崩壊
子供の頃、「大洋ホエールズ」はドラマ『太陽にほえろ』の出演者やスタッフの作っている草野球チームだと思っていたくらい野球音痴である私にも、2003年のタイガース優勝フィーバーはとても印象に残った。そして、タイガースが前回優勝した1985年に、偶然にも私の社会人としての生き方を左右することになるいろいろなことが起こったのだということに同時に思いを巡らせた。この18年で日本の社会や経済はどれほど変化したか、その変わりようは、特に銀行業界に身をおいた者にとっては、戦後50年にも匹敵するものではないかと思う。
まず、9月に行われたプラザ合意により、日本はバブル経済に突入し、その後の失われた10年の発端となった。
また、この年に日本は女子差別撤廃条約を批准し、男女雇用機会均等法が成立し(施行は1986年)、そのために1986年の採用活動から女性総合職の採用活動を始める大企業が多く、したがって1987年、すなわち私が大学を卒業した年に多くの企業で女性総合職第一期生が誕生した。私もその一人だった。
当時、バブル景気を背景に金融業界は未曾有の繁栄に狂喜乱舞し、大銀行20行体制は磐石に永遠に続くもののように思われた。特に入社した信託銀行は株式・不動産双方の値上がりを受けて、仕事は忙しいが、新商品の開発等、前向きなものばかりで楽しく、連日の深夜までの残業後、新入社員にもタクシー券が渡され、しかし、タクシーを呼ぼうとしても電話がなかなかつながらないという毎日だった。
そのおかげで、通常一カ国ですます(通常は1年でLL.M.を取得後、visiting student等の身分でもう1年勉強することが多かった)留学も、米国で学位取得後、2年目は英国への留学を許可してもらえたのである。
しかし、1991年に留学し、1993年に帰国した私を待っていたのは、崩壊しきったバブル経済だった。バブルの頃は英雄とされた不動産融資等が戦犯扱いされる等、全ての価値観が180度変わってしまっていた。同じ頃55年体制を打破する形で成立した細川内閣も改革の実績をあげられないまま終わった。
高度成長期である1960年代に生まれた私は、自宅に電話やカラーテレビがない時代(実家が裕福でなかったせいもあるが)も経験している。それゆえ、「人々の努力によって世の中はだんだん右肩上がりに良くなっていくものなのだ」という素朴な思考様式をもっていたから、こうした事態は非常なショックであり、「世の中には何一つ確かなものなんかない、特に経済やビジネスは。」と思うようになり、そういう不確かなものに依拠する銀行員という仕事を一生続けることに無理を感じるようになった。「どんな時代でも研究や教育の重要性だけは不変だろう」と思い、「いずれ大学で教えたい」と考えるようになった。そこで、オックスフォード大学で書いた論文を日本語にしてジュリストに掲載することを手始めに、銀行員の激務の傍ら、論文を発表するようになった。留学中の成果のみならず、ロンドン支店の融資案件の審査の仕事をしている時は英国地方公共団体からの保証がUltra Viresで無効になった判決に実際に影響を受ける案件を担当していたことからその判決の解説等を発表したりしていた。80年代の末には「World Banker」誌で上位を独占した邦銀も、BIS規制やジャパン・プレミアムに苦しめられ、国際業務はどこも苦戦していた。
1995年にベアリングズ事件(銀行のロンドン支店が同じビルに入っており、その頃出張があり、間違えて、事件で騒然とするベアリングズ社に入ってしまったことがある)と大和銀行ニューヨーク支店事件(余談だが、井口俊英の『告白』の中に、収監先でその直前に起きたトレードセンタービルの爆発事件の犯人と一緒になり、冗談で「あまり大きな音がしたので飛行機でも突っ込んだかと思ったよ」といったという件を読んで慄然とした)が起き、海外支店のコンプライアンス・オフィサーを本部で一元的に管理することが監督官庁から義務付けられ、その仕事を担当するようになった。
1997年、遠い将来学者になりたいという思いから、金融法務では業界一の実績があり、学者も輩出している銀行の法務部に転職。総会屋事件等でこの年大揺れに揺れていたが、その方が法務部門の役割は重視されるしやりがいがあると思ったのである。
翌1998年には金融システム改革法が成立し、金融自由化の一環として投資信託の銀行窓販等が解禁され、私が主担当になり法務周りを任せてもらった。
この年、長銀、日債銀が破綻し、官僚の接待汚職事件が起きた。
自由化で扱える商品が増えるだけでなく、護送船団方式から脱皮し、通達行政を廃止し透明化された銀行業務では、法務部門の果たす役割が非常に大きく、毎日ビジネスの必要性に裏打ちされた新しい法分野を勉強しつつ現場と共同してpracticeするという、今考えても法律家としてこれ以上望めないような環境で仕事ができた。商法改正や債権譲渡特例法、消費者契約法、金融商品販売法等の私法分野の大きな法改正・立法を現場で扱うのも醍醐味があった。2000年、奇しくも私が生まれた年に初めて統一書式が作られた銀行取引約定書ひな型が廃止されたことに象徴されるように、銀行が独自に法務等の方針を立てなければならないというやりがいもあった。
そこで、夫に香港への転勤の辞令が出た時は、当初単身赴任してもらうつもりだったが、結局退職して同行したのである(その経緯および香港での生活については本誌Vol30No.9~12『香港だより』に詳述している)。
夫の帰国は本省の都合で予定より早まり、本来なら2004年3月に帰国するところ、2002年12月に帰国したが、そのおかげで、法科大学院設立申請(2003年6月)を控え、実務家教官のニーズのあった大学に就職することができたのも巡り合わせであろう。もし予定通りであれば、法科大学院がらみの求人はもはやなかったであろうから。

(2)女性として
私が銀行でやっていくことに限界を感じたのはバブル崩壊だけではない。
残念ながら、今の日本では経済合理性の支配する業界では女性が成功するのはきわめて難しいと思ったからである。
私が社会人になった1987年にはまだ「セクハラ」という言葉さえ一般には知られていなかった(だから1989年の流行語大賞に選ばれている)から、残念ながら今なら完全に「セクハラ」として禁止されるようなことも当時の職場では少なからずあった。
また、企業だけでなく、国のいろいろな制度自体が、男は仕事、女は家庭という性別役割分担に基づいて作られていることに次第に気づいていったのである。
とくに、世帯単位の課税や社会保障制度は、女性が働くと却って損になるようにできている。配偶者控除、年金の3号被保険者、健康保険、会社の配偶者手当等。男を家庭責任から解放した方が経済効率がいいからである。会社で深夜に残業しているとき、小さい子のいる男性の同僚を見て「彼がこうして激務をこなしながらも人の子の親になれているのは、妻が彼に代わって子に食事をさせ、オムツを換え、寝かしつけているからだ。そして、そのコストは、私を含めた他の労働者がみんなで負担していることになる。なぜ、男だけが仕事と親業を両立できるようになっているのか」と悔しくてたまらなかった。
産業社会によって女は3度利用される。若いうちは低賃金のルーティン・ワークを担う「職場の花」として、結婚後は企業戦士の「銃後の妻」として、そして子育てが一段落した後は一般職より安くすむパートまたは派遣労働者として。
所得の低い専業主婦を優遇する制度があるから、大企業の多くは「扶養家族の範囲内で働きたい」という主婦を関係会社である派遣会社に登録させて、一般職の代替として使う。社会保険料の使用者負担分がないから、コストは一般職の半分以下ですむから。だから、一般職の採用をやめる企業も多く、銀行の本部などはこうした主婦労働者が一般職より多くなっているところもある。1999年の派遣労働者の業務範囲拡大でますますこうした傾向に拍車がかかった。既存の一般職に総合職になるか派遣社員になるか二者択一を迫る会社もある。1998年に首相の諮問機関である「少子化を考える有識者会議」働き方分科会の委員になって、私はますますそういう思いを強くしていった。
はじめの銀行では、結婚後旧姓使用も認めてくれなかった。
転職先では、その直前に制度ができ、国家公務員も最近制度ができたので、それ以降は幸い旧姓を使っているが。
それらのことから、経済合理性の支配する企業社会でやっていく自信がなかったことも、学者に転進した理由の一つである。

(3)歴史の証人となった体験の共有
以上は、まるで消去法で学者になったようで申し訳ないが、積極的な理由もある。
キケロは、高齢者を惨めにするのは①肉体の衰え②快楽から遠ざかる③死の接近のみならず、④公的な活動からの隠退であるといっているが、世界一寿命の長い日本女性としては、なるべく長く現役で働ける仕事を選びたい。たとえサラリーマンとして位人身を極めて役員になっても退任後は生きがいのない老人になっている人もたくさん見てきた。学者なら、たとえ大学自体は定年退職しても、死ぬまで論文を書く等を続けられる。
また、教育により、若い人を育てることによって、自分の足跡を残したいとも思う。高校時代、大学時代にたくさんのすばらしい恩師に出会ったことが影響している。
さらに、前記のような大変動期の金融業界に均等法第一世代として身をおいた経験を、たくさんの人と共有し、願わくば私が送り出す女子学生が少しでも生きやすい世の中にしたい。その観点から、来年度は契約法、担保法のほかに「ジェンダーと法」という講座を担当する予定にしている。本学初の試みである。

3.大学教師生活
私は、大学教師としては、実務家出身であること、4カ国で法学教育を受けているという特殊性を持っているが、もう一つの変わったところは、元々文学部志望だったということである。
中学2年で出会ってから三島由紀夫の熱烈な読者であった私は、文芸評論家になることを目指して東京大学の文科三類に入学した。しかし、文学の世界ではよほどの才能がないと食べていけないことに気づくとともに、点字サークル等でボランティア活動を始めたことから、もう少し社会的な仕事がしたいと思うようになり、法曹を目指して法学部に転部したのである。
しかし、法学部の授業は私にとって日本語とは思えないほどちんぷんかんぷんだったし、いまだにその時感じた「法律って何か、変」という素人くささを引きずっている。就職して実際に銀行法務の仕事をしてはじめて「ああ、あれはこういう場面で必要な知識だったんだ。もう一度大学に戻って授業を聞きたい!」と思ったほどである。
私は終始文学的な人間で、法曹といっても三島の小説に出てくる裁判官と自分が余りにも似ていたのでそれが自分にふさわしい職業だと(社会的地位の高さにかかわらず人生の敗残者という設定なので)自虐的に思っていたり、司法試験は論文試験で不合格になり、浪人できない家庭の事情から銀行に就職することになっても、三島由紀夫が「小説家は銀行員のような生活態度でいなければならない」というトーマス・マンの言葉が好きでよく引用していたから、まあ、いいか、と思ったりしていた。
経済にも疎くて、恥をしのんで告白すると、銀行に入社するまで(就職活動までではない!)都市銀行、長信銀、信託銀行、地方銀行といった分類について全く知らないばかりか、「ノンバンク」は銀行以外の全ての業種の総称だと思っていたくらいだ。
つまり、私のような法律・経済劣等生が経済学部の法学科で教えるということ自体噴飯物かもしれないのだが、だからこそ、初学者のつまずく場所がよくわかる。
また、具体的に法律がどんな場面で使われるか学生にイメージさせようと、小説(執行妨害を扱った宮部みゆきの『理由』や篠田節子の『女たちのジハード』等)やドラマ(『事件』等)を題材にし、ナニワ金融道の、帝国金融が短期賃貸借と代物弁済予約を併用し、所有権者になって先順位抵当権者に滁除をしかけるエピソードが、今回の民法改正で結果がどう変わるかを小テストの問題に出したりしている。さらに、刑事裁判傍聴や法務局で下宿の登記簿謄本をあげさせてレポートを書かせる等も行っている。
担保法では「(債権者から保証人への通知義務等について)民法上こうだが、銀行は契約書に条項を入れて銀行に不利な民法上の原則がそのまま適用されないようにしている」等、銀行の手の内も明かしたり、講学上の民法と実務の懸隔を埋めるよう努力している。

生活面では、やはり、夫を東京においての単身赴任生活は心身にも経済にも負担であるし、物心ついてから日本では23区を出たことのない身には、世界67カ国を旅行/滞在しても(否、だからこそか?)感じることのなかった違和感を信州人気質に対しては覚えることも否定できない。
しかし、学者としてだけでなく人間として最も尊敬する恩師米倉明先生の教科書を使って学生に講義できることは望外の幸せである(民法学者という自己認識は、米倉先生と同じであるという一点において申し訳なく恐れ多すぎる)。
また、刑事裁判で被告人に感情移入して泣きそうになったという学生や、実験等でへとへとなのに私の主催する点字講習会に欠かさず参加してくれる工学部の学生等はかわいい。
それらのものや、雨後の北アルプスの山並みの息をのむほど美しさ等に支えられ、学者一年生の生活を必死に送っている毎日なのである。