書呆子のブログ -87ページ目

社会科学ゼミナール

昨年度に続いて、今年も法学科1年生を対象にした社会科学ゼミを担当している。
20数名ずつ3クラスに分け、3名の教員がそれぞれのクラスで5回ずつ法律や政治の基礎を教えるというもの。
(昨年度は3人のうち1人の教員が採点を放棄し困った【のみならずその人はレポートを学期終了後何ヶ月も学務係に置きっぱなしにしていた。つまり、学生が一生懸命書いたレポートを自分の研究室に持っていくことさえしていなかったということ。学生への裏切りだと思う】が、今年度の顔ぶれだとその懸念は全くないだろう)
昨年採点しなかったこの人物は今年の前期担当科目もいまだに(11月17日学務係に確認)採点していず、学生、とくに4年生を困らせているのは許せない。個別に聞きに行った学生で「君は不可だからレポートを書きなさい」と言われた者がいるようだが、それって非常に不公平じゃないだろうか。聞きにいった学生だけが不可を挽回するチャンスを与えられ、成績が発表されるまで待っていた学生は不可を挽回するチャンスがないなんて。学生にこんな思いをさせるなんて教員失格だと思う。常人の感覚では到底理解できない。(個人攻撃でなく、同じ教員として義憤にかられて書いたことは賢明な読者ならご理解いただけると思う)

今年度は少人数でしかできないことをしようと、私の担当部分では、以下の場所への見学を行っている。

少年刑務所見学
法務局見学
法律事務所見学

いずれも大学から近い範囲にあるからこそできることだが、こういう点は、徒歩圏にこういう施設が全てあるとは思えない大都会の大学で教えるよりメリットがあるなと思う。

法律事務所は今年の春に県弁護士会主催のハワイ州司法制度視察旅行に通訳として同行した際、ご一緒させていただいたTN弁護士にご協力いただいているが、改めて、地方都市の弁護士の果たす公益的な役割に目を啓かされ、こういう良心的な法曹の方々に日本の「法の支配」は支えられているのだなとつくづく思う。銀行員時代は、corporate lawyerとばかり仕事をしていたから。(といっても人権派の弁護士も個人的な知り合いならいるが。坂本堤さんとも話したことがある)T事務所のN弁護士(この方もハワイでご一緒した)が「東京でpracticeするという選択肢もあったが、いろいろな仕事ができて依頼人との距離も近い弁護士らしい仕事は地方でしかできない」という言葉が印象的だった。

法務局では、本学経済学部の86年卒の登記事務官の方が親身に説明してくださる。

少年刑務所を見学して印象的だったのは、担当者の方の、「自分は災害があったら自分の家族よりまずここにかけつけ受刑者を守る。中越地震でもその地域の少年刑務所の収容者が安全な刑務所に移送された」という話だ。学生の感想文の中には「一般の被災者が避難所生活で難儀を強いられ、車で寝泊りしてエコノミー症候群で亡くなったりしている人もいるのに」というものが結構あった。

見学を3回行い、それぞれ感想文を書かせる。
残る2回のうち、初回は見学をより意義あるものにするため予備知識の説明をし、今1回は学生を3-4班に分けて発表をさせる。
テーマは、少年刑務所の見学にからめ、「少年犯罪実名報道」について、1998年におきた堺通り魔殺人事件の地裁判決、高裁判決を分析させるとともに、各班に実名報道が許される基準について提案させるというもの。

難しすぎるのではないかと思ったが、どの班もこちらの予想以上のすばらしい発表をしてくれ、うれしくて涙が出そうだった。
過去の少年犯罪についても詳細に調査したり、実名報道について判断する委員会の設置を提案したり、パワーポイントでプレゼンする班さえあった。

ところで、この授業のために高山文彦の「少年犯罪実名報道」を夏休みに読んだ。高山氏は私の座右の書「いのちの初夜」の著者北條民雄(ハンセン病患者として収容所で作品を書いていた人。私は全集も持っている)の生涯を扱った「火花」で大宅壮一ノンフィクション賞をとった人だが、彼の実名ルポはさすがに読ませる(新潮45を他大学から取り寄せた)。
ただし、堺の事件の犯人について「子供をもっても女としてしか生きられない」淫蕩な母に捨てられたという、母親の責任ばかりに言及するのがジェンダー的にはどうか、と思った。父親だって彼を捨てているのであるし、自分の両親に息子を預け、時々は会いにくる母親の方が、まったく音沙汰ない父親よりはましであり、そこに「母親は父親より子を愛すべきだ」という価値観や、次々新しい男を作ることへの非難も母は女より母であるべきという価値観が前面に出ていてフェミニストの視点からは感心できなかった。

この本の中に柳田邦男が裁判所に提出した意見書が出てくるが、その直前に(今更ながら)「犠牲」を読んでいたので、また関連妄想。「犠牲」を読んで身内の不幸を題材にしながらセンチメンタリズムに陥っていない(親馬鹿な部分は多少あるが)点がさすがと思ったが、ひとつ気になったのが、「ナイーブ」という言葉を、英語本来の意味(世間知らず、単純、幼稚)でなく、和製英語(繊細、内向的)の意味で多用していることだ。
ナイーブをどういう意味で使うかでその人の英語力がわかることがある。
ある同僚が、専門からして英語が少なくとも読めないとまずいだろう(アメリカの制度が多く取り入れられ、現在もその方向での改正が進んでいる分野だから)のに、私が悩みを相談した際、「先生って意外にナイーブなんですね。気にしすぎですよ」といわれ、「この人の英語力って」とショックを受けたことがある(けんかを売られたり嫌味を言われるシチュエーションではなかったが、一瞬けんかを売られたのではないかと思って相手の顔を見てしまったが、にこにこしていた)。少なくとも英語の使い手とわかっている相手には英語本来の意味で使うのではないだろうかと思ったから。英語の社会科学の論文ではnaiveという表現は「荒削り」という意味でよく出てくるからだ。

本日発売のアエラ

に、取材を受けた記事が出た。
「東大卒女子40歳の現実」という巻頭特集。
夫の家事分担率90%以上とアンケートに回答したのはたった1人で、それは我が家のことである。
(夫の名誉のためにいっておくが、夫は多忙なキャリア官僚で現在内閣官房に出向中である。)

育った場所に対するコンプレックスも記事に書かれたが、
同じアエラに「学校選択制ランク 都内小中校一覧」という記事があり、わが母校の小学校が、区内で入学率ワースト4ということがわかったのが、象徴的。

就職と留学(自分史5)

そんな不純な動機だったせいか、司法試験には失敗し、1987年に卒業と同時にある銀行に女性総合職第一期生として就職することになった。前年に施行された男女雇用機会均等法のおかげで、多くの企業が初めて女性の総合職を採用するという年に、司法試験で留年していたため、たまたま大学を卒業したのである。時はバブル経済の最盛期で、銀行をはじめとする金融界は株式市場や不動産の高騰に業界をあげて驚喜乱舞している時代であった。

他の総合職一期生世代の女性と同様、何をするにしても「女性で初めて」という肩書がついてまわり、マスコミの取材等も受けていたが、私はまず一人前の銀行員として仕事で認められたかった。私が配属されたのは法務部で、銀行のさまざまな法律問題を解決したり契約書を作成したりするのが主な業務であったが、知識がものをいう仕事であったために、女性であるがゆえのハンディをほとんど感じることもなく、懸命に仕事をこなし、銀行内での高い評価ももらえるようになっていった。

そんな私に、転機は入社3年目に訪れた。その銀行では総合職は入社3年目から海外留学生になるための試験が受けられるので、金融のglobalizationの流れをひしひしと感じていた私は、金融先進国である米国のロー・スクールへの留学を志願したのである。しかし、英語も入社当時に比べかなり上達していたのに、結果は不合格。かなり落ちこんで「こんな会社辞めて自費で留学してやる(当時はいくらでも再就職口があると思えたのである)」とまで思いつめたが、一歩進んで、「そうだ、もう一度受験して合格したら留学だし、だめだったら会社を辞めるのだから、どちらにせよ、今の法務の仕事はあと1年しかできない、ならば悔いを残さないように今しかできないことに全力を尽くそう」と思うようになった。それで、事務セクションと定期的に会議を開いてより支店の助けになる連携策を練ったり、書籍や論文の検索を容易にするためデータベース(まだエクセルもない時代であった)の構築を企画・実行したりと積極的に業務の改善に取り組んだ。また、私生活でも、「生まれて初めて海外生活をするには、苦手を克服する精神力がなければ」と思い、子供の頃から大の運動音痴で大学三年になる時「これで人生でニ度と体育をしなくてすむ」と喜んだ私だが、テニススクールに入ったり、スキューバダイビングの免許を取得したりした。

その甲斐あって次回の挑戦でめでたく社内選抜に合格し、留学への切符を手に入れたが、行く先まで会社は用意してくれない。自分で志望校に出願するのであるが、ここでも私は他人と違うことに挑戦した。普通、企業派遣留学というのは、米国のビジネス・スクールかロー・スクールに留学して学位を取得するのだが、ビジネス・スクールは2年間でMBAを取得するのに対して、ロー・スクールは1年間でLL.M.(法学修士号)を取得するというように年限が違う、しかし、同じ企業派遣で期間に差を設けるのは…というので、ロー・スクール留学生も2年間留学させてもらえるようになっていた。学位は既にとっているのに、2年目何をするかというと、ほとんどの人は同じかまたは別のロー・スクールで聴講生のような単位取得義務のない立場で勉強するのだった。しかし、私はそれでは時間がもったいないと思い、2年目はイギリスの大学院に行きたいと思い、人事部に許可を得て(バブル経済だから許された贅沢であろう)、アメリカとイギリスの両方に出願し、Harvard, Columbia, Oxford, Cambridgeをはじめとするほとんどの大学から合格通知を得たが、イギリスの大学には「1年後に行かせて下さい」と手紙を出して、1991年にHarvard Law Schoolに留学した。

私は28歳のその時まで、海外旅行どころか飛行機に乗ったこともなかったし、英語の読み書きはできても会話はからっきしだめだったので、Harvardの勉強には非常に苦労したが、それは予行練習に過ぎなかった、と思ったのは翌年Oxfordに行ってからである。外国人留学生に慣れておりある意味お客さん扱いしてくれるHarvardと違い、Oxfordのカリキュラムは厳しかった。Tutorの先生に会う度に「昨日は何時間勉強したの?最低8時間以上は勉強しないと落第しますよ」と脅され、その先生をはじめ回り中の誰もが私は卒業できないと思っていた。しかし、勉強の要領を徐々に覚え、卒業時にはFirst Classという、上位10%の学生だけに与えられる特別賞付きで卒業証書をもらうことができたのである.(日本人では初めてではないかといわれ、初めの頃さんざん脅した先生も「厳しいことをいってごめんなさい」といってくれた)。

二つの法学修士号を手に、1993年に銀行に復帰した私を待っていたのは、完全に崩壊しきったバブル経済だった。国際業務のセクションに配属された私は、入社当時とあまりに様変わりした経済状況に唖然としていた。バブルの頃、できる銀行員の証であった不動産融資は、(当時の)大蔵省からほとんど犯罪視される等、全ての価値観が180度変わっていた。「鬼畜米英」といっていた学校の教師が終戦を境に掌を返したように米国を礼賛するのとも似た節操のないあり方に、私は「世の中には何一つ確かなものなんかない」と思うようになった。

他の(主として男性の)同僚と同様、ジェネラリストとして出世の階段を上がっていくことこそ銀行員の花道と考えていたが、出世して役員になっても、かつて「手柄」だった取引が犯罪扱いになり引責辞任を迫られるケース等を見ていて、出世できなくても法務のスペシャリストとして生きていこう、そしていずれは大学で教えたい、と思うようになった。それで、激務の傍ら法律論文を発表したり、また、「教えたい体質」はその頃からあったのか、ロースクールに関する情報が極端に少ないことに自分自身が悩んだ経験を後進に役立ててもらうため、懇切丁寧な出願手続きのガイドからハーヴァードでの生活体験記までカバーしたガイドブック『ロー・スクール留学ガイド』を出版した。今でもロースクール留学の最もコンプリヘンシブな本として読まれている。日本人留学者で知らぬ人はいないらしく、初対面の渉外弁護士から「あなたの本で勉強しました」と声をかけられることもある。