この6月、第一週の土曜日の午後に父が旅立ちました。

5月に帰郷した際、父のお見舞いが目的で、二人だけで話ができた時間が大切な思い出になりました。そこでかけてくれた言葉は、私にとって一番嬉しいものでした。

父は亡くなる少し前、孫たちに自身の人生を語り、「幸せな人生だった」と話したそうです。その父の人生をここに少しだけ書き記したいと思います。

 

父は昭和7年生まれ、93歳でした。

旧制中学2年、13歳の時に原爆を経験し、終戦を迎えました。祖父は病気がちで亡くなりましたが、英語も話すモダンな人で外国の方々もいらしていたようです。

そのような状況でしたので経済的に厳しく、夜間の工業専門学校に通い建築を学び、2級建築士の資格を取得して、そこから国家公務員として働き始めました。しかし、自分が成りたいものになろうと思います(自分の父親と同じ職業での会社を興すこと)。

 

19歳の時、上京し夜間大学に通い始めます。極貧のなかで学びながら、卒業後は東京大学出身の方々が設立した設計事務所に就職しました。

その後、27歳で故郷に戻り、東京の会社の人脈を活かして地元の会社へ転職します。働きながら1級建築士の資格を取得し、40歳の時に弟と設計事務所を設立。会社は約50名の規模にまでなりました。その専門分野では小さいながらも名前を知って頂いたものです。

 

その後、65歳で大病を患い、2度の手術を乗り越えました。70代に入りCADへの移行期には、若い世代に交じって新しい技術を学びました。

80歳を超える頃から耳が完全に聞こえなくなり、「感動することが減った」と言っていたものの、仕事と随筆などの執筆活動にも楽しみを見つけ、雑誌へも投稿していました。そのような中、仕事中に認知機能の不安を覚えた際も、自ら医師に相談し、助言を受けながら脳機能の維持と向上に努め、亡くなるまでその能力を保ち続け、衰えることはありませんでした。

 

80代後半になると度々骨折しては入院を繰り返しました。医療関係の方々からは「回復しても車いすに座れる程度」と言われましたが、懸命なリハビリで毎回自宅に戻り、周囲を驚かせていました。仕事は休みながらすることを勧められても「ついつい夢中になって、時間を忘れてしまう」と言いながら、仕事ができる時間を何より楽しみにしていたようです。父は90歳まで現役で仕事をし、最晩年には原爆体験の記憶を文章に残しました。次に投稿しようとしていた原稿も手元にあります。

亡くなった後のことも自分で決めていました。自身の身体は医学に役立てることを望んで献体を希望し、母が亡くなった後に一緒に海への散骨、葬儀は身内のみでということでした。

 

父は、困難な状況の中でも決して諦めず、現実を受け入れながら次へと進み、今為すべきことを為してきたようです。新しいことへの取り組む姿や柔軟な学びの姿勢は、年齢とは関係ないことを教えてくれました。最期までそのような人でした。

 

私自身、理解していたつもりでいた父の人生を振り返ると理解していなかったことが多くありました。本人は「幸せな人生だった」と残しました。その言葉の通りだったと思います。私もまた「明日が来ること」を信じて、今を大事に歩んでいきたいと思っています。

 

 

 

長くなりましたが、最後までお読みいただけましたら、幸いでございます。
日本中には、父のような市井の人たちが数多くいらっしゃることを思います。

そしてそれを感慨深く感じた次第でございます。