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家族で野球を見に行くとき、それはプロ野球ではなくて都市対抗野球だった。
小さいころの自分は、座高の低さから前の大人の背中に阻まれてプレイの様子も見えないし、そもそも野球に興味がなかった。
とにかくその数時間を、まわりの大人にお付き合いしていたという感覚。
気持ちも財布の紐もすっかり緩んだ両親に、よく東京ドームの形をしたモナカアイスを買ってもらって食べた。だから今でも野球といえば都市対抗野球、東京ドームといえばこのアイスが真っ先に浮かぶ。
大人になっても野球は苦手なままだが、都市対抗野球のあの独特の雰囲気懐かしくなって思いつきで観戦に行った。もちろん東京ドームモナカも食べた。

ベートーベンの悲愴ソナタ第2楽章Adagio Cantabileはとても美しい曲だが、自分で美しく演奏するのはなかなかに難しい。 
誰もが一度は聞いたことがあるメロディは、厚みのあるハーモニーが滑らかに接続された結果メロディが浮かび上がるといった構造になっている。
 
これは本当に絶妙なバランスの上に成り立っているもので、全ての音がそうであるべきたたずまいに置かなければいけないというコントロールの難しさがある。感傷的なメロディに自分が扇情されていては安っぽい音楽になり下がるのがオチ、となる。
 

この感覚にぴったりなものに偶然出会った。球体パズルです。 

3Dパズルの一種で、240ピースになったパズルを組み立てると球体になる。
地球と月に模したパズルがあり、月球儀の方を購入してみた。
パズルのピースには通し番号がついており、それにしたがってらせん状に組み立てるように指示があるため、手順としてはそんなに難しくない。



がしかし、球体を完成させる最後の4ピースが非常に難しい。
 
かなりうまくやらないと、バランスを崩してせっかく組み立ててた他の部分まで崩れてしまうのだ。
絶妙な力加減でピースをはめ込むと、均質な球体が出来上がる。 


こういう感覚を持って悲愴を弾くと曲は完全な美しい構造物となり、羽が生えたような浮遊感で天に昇っていくような気がする。 傷ついた心が昇華されていくような、救済の音楽。


もうずっと前に参列した友人の教会での結婚式でのこと。
儀式の中で牧師からのこんな話が挟まれたのが忘れられない。

"神は大地をつくったのち、ひとりの人間を創られたという"
たぶんいわゆる、アダムのこと。 

"アダムはひとりで生活し、働き、いくつもの昼と夜を過ごした"
"それを見た神は思うところあり、彼を助け、さし向かわせる存在を与えたという" 
たぶんこれは、イブのことだろう。 
"ふたりは協力して暮らし、こどもをつくり、支えあって生きた"
"人間はひとりで生きていけない、さし向かい協力して暮らすのだ"  


結婚式という場でこの話をするのは、主に最後の2文を伝えるためなのだろう。
ところがその時の自分は友人への祝福とはまったく別として、この牧師のメッセージを素直に受け取ることができなかった。

まず浮かんだのは、 イブは"ひとり"を知らないのだという感想。

生まれた瞬間からずっとアダムがいたからだ。 ではアダムは? 

ひとりで生活するアダムをみて、神が"思うところあった"そうだが、何を思ったのか。
ひとりではさみしいだろうという"思いやり"だったんだろうかと想像する。
では果たしてアダムは、"ひとり"の時本当に寂しかったのだろうか。 

もしかしたら、ほんとうのさみしさはイブが現れてふたりという可能性を知って初めて知るものだったんじゃないだろうか。
アダムには、たぶん不意にひとりになりたい瞬間があったはずだ。
そして、恐らくイブにはその理由が理解できなかったんじゃないか。 


それでも、アダムがイブから与えられる喜びは予想だにしない大きさだったと思う。それは無視できない。 孤独を内包しないイブは、存在そのものが温かい光なんだろう。 
一方イブは時にひとりになりたがるアダムに、たまらなく不安になったろうと思う。
イブはそこで、取り残されるひとりを知る。 
つまりイブの孤独はアダムによって作り出される。 
だからこそきっと、イブのひとりは理不尽でかなしいものだ。その孤独をきっとアダムは理解できない。 

-------と、このようなことを瞬時に感じたと思う。
というのも、当時は少なからず自分自身の精神的な危機を感じていて、その大きな原因の1つは「孤独」というキーワードだった。では当時の自分の「孤独」はアダム系とイブ系、はたしてどっちだったか。 
このお話ではアダム-イブという二者の関係にフォーカスしているが、本来この物語に登場する人物は、アダムとイブの他にもう1人いる。神だ。つまり、わたしーあなたという二者関係にもうひとつ"第三者"という目線を加えることができる。 

ここでの神はアダムの孤独にもイブの孤独にも直接介入せず、ただ「2人」を生み出した張本人であり、いわば余計な孤独を生み出したおせっかいな黒幕でもあるのだが(聖書の冒涜になっていたら申し訳ない)、もし神がアダムとイブのそれぞれの孤独を仲介できる冷静な中立の第三者になれたのなら。
 

自分の「孤独」は、第三者としての孤独と整理している。
つねに自分は第三者であり「わたしーあなた」という緊密な人間関係、その当事者になれないという深刻な悩みがあった。 
当時シューマン=リストの「献呈」を練習した時のメモにこうある。『ロベルトとクララの幸せな結婚、そのプライベートな歌曲をあえて引っ張りだしてきたリスト。だからこの曲を当事者の幸せに浸って弾くことはできない。蚊帳の外から憧れるように祝うように、リストの目線から弾こう』 

この神話を聞いた時に、人はひとりでは生きていけないというメッセージが「二者関係」の重要性を諭したものであるように感じられた。それは自分にとって痛いところを突かれるような話であった。
だからこそ、アダムはひとりでさみしかった・イブが来てさみしさは解消されたという物語にツッコミを入れたくなった…というのが正しい心境だったように今は思える。