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atamanonaka

頭の中

珈琲屋を出ると、外は、飲み会帰りのサラリーマンの波が押し寄せていた。
たとえば、ここでこけてみたりしたら、あきらは振り返って大丈夫かと跪いてくれるだろうか。
前を歩くあきらの背中を目でおいつつ、計算外の鼻炎の辛さと元から有していた肌の白さで雌らしい体面を保つ事に成功する。
あきらが振り返る、ここぞとばかりに目に液体が浮かび上がる。

カラオケボックスの受付では頬の紅潮が目立つが、あきらは一度もこちらを見る事もなく淡々と店員のシステムの説明に頷いている。
粛々とした中に可憐な一面を覗かせるテストをクリアした私、というと、ひどくふしだらな女に見えるが、本能のままに突き動かされている故、自覚なんてものは皆無である。
ただルイ自身の醸し出す腐敗した女のにおいに騙されている雄をあざ笑いたいという感情は、透過しているだけで、根底にしっかり刻まれている。

あきらは室内の空調を暖房27度に設定して、カーディガンを脱いだ。
意外と着やせするタイプなんだと口にだすのを遮るかのように、私の背後に掛かっているハンガーを手に取っていた。
あきらの香水が微かに香ったのを、何度も忘れたくないと思いながら反芻していた。

あきらのワンマンショーが始まって10分、私は次に歌ってもらう曲を探していた。
するとあきらが突然、静かに、煽るような、くすぐったい小声で言った。
ー俺になにしてほしいの?キス?セックス?
体の温度が上昇する、指先から痺れて力が抜けていく感覚に襲われた。
余韻を味わいたくて口の中で舌先を宙にうかす。
うっすら目を閉じて、少しずつ息を吐いて、またゆっくりと目をあけた。
視界に見えたのはあきらの顔、ただのあきらの顔のはずだった。
なのに、あきらの顔は男の顔になっていた。
自信に溢れて、ポジティヴなセックスをする高校生のような陽気な顔。
言葉の端々に錆びて苦みのある、奥行きという人間性のトンネルが、好奇心と不安で押しつぶされそうになる、そんな気持ちにさせてくれる男性の顔、それがそこにはなかった。
まるで撥水加工のほどこしてあるシャツの上を流れるみたいに、私は冷めていった。
なにを言ったかなんて思い出せない。
くだらない接吻に時間を費やして、このあとが想像出来てしまった。
単調におとなしい男の顔をみせられても興奮しないのに。

カラオケボックスを出て、狼ちゃんの仮面を被った薄っぺらな男がラブホテルを探している。
ー妄想の余地があるうちが楽しいです。もう二度と会う事ないかと思うと残念です。
 きっと聞き慣れたフレーズでしょうが、さようなら。
あきらが理解できるであろう言葉を並べてみた。
着地点を見失った哀れな男に下半身を熱っぽくさせた自分がばからしい。
タクシーの表示が赤く割増と光る、駅前の人もまばらな一方通行。
私は振り返らずに深く座席に腰掛ける。
主人に「愛してる」とメールを打った。

飲みかけの珈琲が冷めるのを早く感じたのは、この状況を楽しんでる証拠になるのだろうか。
ルイの珈琲カップに薄くついた紅が安っぽく見えて不快だった。
もっと高貴であれ、などと、感じてしまっているのだろうか。
現実から目を背けたいのだろうか。
嫌いじゃない。
ルイを、人間を計るにはあまりにも短すぎる時間の中で、僕は間違いに気づかないでいる。

外の景色から灯りが消えていく、そして生まれていく。
大人の時計に切り替わる瞬間をみている。
うまく人を避けながら歩く俺、気配が消えて斜め後ろを仕方なく振り返れば、そこには目を潤ませる子犬のような姿がある。
その先には赤い看板のカラオケボックス、受付の女のひどい顔を見てるとなんだか麻痺してくる。

ルイがデンモクとマイクを綺麗にテーブルに並べ、飲み物のメニューを差し出す。
ジンジャーエールを頼むのには理由があるのだと、あの歌手のあの曲に、俺はぶっきらぼうに相づちを打った。
ルイは黙った。
厚手のジャケットを着たまま、薄着な俺の40㎝先の場所が、世界で一番遠い世界にいるように感じてたんじゃないか、いい気分だ。
二曲歌い終わって、三曲目、weezerを探すルイの横でMacを開く、俺は仕事人間だ。メールチェックを怠らない。
ツイッターに一言、「異性の気持ちなんてわからない。」と書き込んだ。
すぐにMacと閉じてルイのほうに体を向け、かためのソファーに左の腕を置き、さながらギャングの尋問かのような態度で問いかけた。
ー俺に何をしてほしいんだ?キス?セックス?
ルイの目に女の表情が見えたから聞いた。打算で俺も同じ事思っていると伝えようかと思ったが、やめた。
ー本当に素敵なことをいいますね。私の眼球を真っ白に汚してください。
ルイの台詞とは思えない表現に一瞬たじろいだ。
その後穏やかな口調で嘲笑してるのかと思ったが、ルイの瞳は大きく茶色かった。

ムスクの香水をつけるのを忘れたけど、俺は右手でルイの腰を引き寄せて、もう片手で首から後頭部を通りルイの右耳を撫でた。
上唇、下唇を舐め、もう一度下唇を噛んだ。
丁寧にナプキンでふきとったリップグロスの残骸が俺の頬を汚していく。
ルイの眉間に寄った皺を見ていた。

たった二時間だけ間借りしたカラオケボックス内での大半をセックス前の戯れに費やして、俺はアニメ声の店員に促されるまま、千円札六枚を払った。顔をみればよかった。


ルイはいった。中途半端な状態の俺を残して。
駅前の広場で次の目的地へのナビを携帯に頼ろうとしていた俺に言った。
最後の聞き慣れたフレーズを残して。
ー妄想の余地があるうちが楽しいです。もう二度と会う事ないかと思うと残念です。
 きっと聞き慣れたフレーズでしょうが、さようなら。

タクシーの窓越しに凛とした横顔のルイとは、それきりだ。
私は仕事を辞めた、1ミリの後悔もない、いっそのこと油をそそいで爆発してそれで暖をとりたいくらいの心境だった。
その頃から、昼夜逆転の生活が始まり、必然的にパソコンの前でただただ煙草と缶コーヒーを消費する毎日。
真夜中、吐息をたてる主人の寝顔を横目に、あるライブ配信をみることになる。
あきらは小さな画面の中で、おそらくカラオケボックスであろう壁にもたれかかり、キラキラ光る画面を眺めていた。
しばらくの間、その絵だけをのぞいていたが、あまりにも不憫に感じてきたので、コメントを寄せる事にした。
ーリクエストしてもいいですか、weezerのハッシュパイプ。
ー外人かあ、うん、それ歌おう。

だらしなく並んだ改札を抜けるまでの列に、
ため息混じりの大人達は行儀よく絶望しているように見える。
駅前の交番を目指して、歩を進めると、渋谷みたいな賑やかさのないこの街でもしっかり時と人間は動いていて、働いてもない妻のつとめも果たせていない自分が情けなく思えてくる。
5回目のコールであきらは電話口にでた。
ーはい。
不機嫌そうに放たれる、体の底辺に積もっていくような低い声。
震える左手をポケットにおさめて指定の珈琲屋へ向かう。

いかにも背広族の好みそうなお高い珈琲屋のショーケース内には1000円近いケーキが二種類と、一杯800円のブレンド珈琲の文字。
一番奥の席に、あきらは、居た。

クラシカルな店内にひと際目立つMacの発光した林檎は、さらに近付き難いオーラを漂わせて、
なのにあきらはなんてラフな格好なんだろう。
そのギャップに少し和らいだ。
この空気清浄機の横の席を選んだのは、わたしにお似合いという事だろうか。
ーごめんね。15分まで待ってくれ。

メニューを開かずに頼んだ珈琲の良さは分からなかったけど、800円ということは、しっかり味わわなきゃなと思う。時間はたくさんあるのだから。
時折あきらの方を見ると、ぼさぼさの頭に薄いカーデガンが、私の目を溶かしていきそうになる。
最高にタイプの顔だ、思っていたより肩幅もあるし、身長も180を越えている。

ーこれ添付して送ったら、終わりだよ。
あきらが顔をあげてくれて嬉しかった。
あきらは既婚者である私に対して、よくそんなこと言えるねだとか、もっともな正論で私の現実逃避をぶち壊した本人だ。
でも、こうやってあきらは目の前に居る、
どこかで女の勘が働いて、女の本能を発揮して、女になりたいと思ってしまうことはいけないこと?
インターネット上には、俺の空虚かつ、迫り来る毎日のプレッシャーを解放させられるコンテンツが豊富にある。
俺が某サイトでライブ配信をはじめたのは3ヶ月前になる。
二週間に一度、するかしないかの放送で視聴者数のカウントを眺めてニヤニヤするような結果はもちろん生まれない。
ある日、深夜の、たった30分の放送枠も半ばをすぎたあたり、
ヒトカラ配信に飽きてきた頃、
白く浮いたコメントが、酒のまわる俺の視界に流れた。
ーこんばんは、リクエストしてもいいですか、weezerのハッシュパイプ。
ルイの発した、一番まともな台詞だった。

丸テーブルの左端に置いたアナログ感溢れる携帯電話が、静かなMacと対比するような、けたたましい振動を携えて主張してくる。
ーはい。
ーこんばんは、あの、つきました。
ルイの声は少し低く、周りの雑音に紛れ込んでく。仕事帰りの会社員の笑い声が聞こえ、俺はすぐに場所を伝えた。

緊張した面持ちのルイを視界にとらえたが、俺はモニターに浮かぶ数字との格闘を強いられて、反応が大きく遅れた。
声だけでのやりとりをしたあと、ルイが珈琲をオーダーして、ミルクの小瓶が運ばれてくるまでの間、きっと二・三分だろうか、俺が顔をあげたときルイは満面の笑みで安心した。
ー仕事、ですか?
ーうん、ごめんね、待たせちゃって。
ー全然平気です。どぞどぞ。
ーうん、ちょっと、15分まで待ってね。

結局、合流してまともに話せたのは時計の針が180度走った、一時間はとうに過ぎた頃だった。
ツイード生地に大きなボタンが並んだショート丈のジャケットに、
斜めにわけた前髪からのぞく長い睫毛、
二十代後半のOLにいそうな無難な格好のルイは、丸みを帯びたスマホを両手で祈るようにみていた。
このスタイルはきつめの顔のルイには似合わない。
他愛もない話にいちいち笑顔をみせるルイに俺は慣れた口調で次の展開へ持ち込む準備をした。
一分一分が無駄に思えてくる、寂れた商店街にある電機屋のショーウィンドウを覗いてるかのような気分だった。
家の鍵は持った、
パソコンの電源も切った、
PASMOのチャージしなきゃ。

錆び止めの赤い塗料が気に食わない、
短い階段がカーキ色のブーツに反応してコツコツ鳴くのを気にしないでいた。
公園脇にとまったタクシーの列、ドライバーのタバコの煙が鮮明に見える。
駅までの道のりに泣きそうになる。

私は男に会いにいく、汚れた体をもってして、罵られに行く道。

売店のガラスにうつる血色の悪い唇を撫でた。
それから緑色のケースに入ったリップクリームを大きく三周ぬって、
怖いくらいの風圧でホームに入ってきた電車の中に逃げる。
センターにわけた黒髪の女性の前にたち、スマホを取り出した。
20分間、あの分け目だけを叩いたら、
髪の毛にそって、左右に綺麗に血が流れるのだろうか。

メール画面を開き、指がつりそうになるのを堪え、送信した。
私が絵文字も使わないような女だって知ったからなのか、
『駅前の交番の向かいにある珈琲屋にいる』
句読点もない返信に、不安は募る。