角界の行く末を案じ・・・ | funta(ふぁんた)のブログ

角界の行く末を案じ・・・

 私がここで述べるまでもなく、誰がどう考えても今の政界と角界はおかしい訳で・・・


角界に焦点を絞って・・・・歴史をちょっとのぞいてみました。


そもそも日本における「相撲」というのは、スポーツではなく、「神事」だったそうです。つまり、神にささげる儀式。


時代は「弥生時代」まで遡るらしく、そう考えるとすでに400年の歴史があるとか。


年に数回、豊作などを願って神々に捧げる神事として、春場所、秋場所などを開催していたとか。


ということは・・・ここからは私の解釈ですが・・・関取ってのは人間でも神でもない、いわば人間界と神との橋渡しをする神職(神主さん)と同じ?、いやむしろ、行司(ぎょうじ)が神主さんだとしたら、関取は神童なのでは?


 ここからは完全に私の個人的なイメージですが・・・


 毎年数回、村の安全や豊作を願って村人が神社に集まってくる。神社には神主さんがいて、参列した村人の前に立ち、神に対して祈願する。ここまでは良く見る風景。


 その後、神社の庭に設置された土俵に村人があつまり、神主の呼び声で体格の大きな関取が数人現れる。

関取は、その神社で共同生活をしながら毎日厳しい稽古や修行をし、人間界とは全く違う生活をしてる。いわば下界を全く知らない「仙人」みたいな人たち。


 その研ぎ澄まされたいでたちと、人間離れした大きな体格に、村人たちは歓喜するわけですよ。


そしてその無口な関取たちは、神主(今でいう行司)の仕切りによって東西に分かれて村人の前で相撲をとる。


例えが悪いけど、闘犬に近い。つまり、人間ではない「何か」が死に物狂いで戦う姿を見て人間が歓喜し、その勝敗にて豊作を占う(祈る)。


 そして、試合(死合い)が終わると、その礼儀正しく無口な関取たちはまた静かに稽古場に戻って山篭りする。


 喜んだ村人は、自分の田畑で取れたお米や野菜を神主に寄贈することで、彼らの食料となる。


それが正しい「相撲」の姿なのだと思う。


 まさに「神」と「人間」の橋渡しをする、神でも人間でもない存在、

神と人間との「関わり」を「取り持つ」、それが「関取」なんだと思います。


ちょっと強引かなぁ・・