「死にたい」のなら、人の幸せを願う。
私も、御多分にもれず、死にたい、なんて思った気分が落ち込むことがある。そんなときは、他人の幸せを願っている。そもそも、なぜ死にたいだなんて思うのだろうか?それは、「他人との比較」にある。いわゆる、サラリーマン40年生活という古い考え方が、私の中にも根付いているのだ。22歳で大学を出て、30歳で昇進、40歳で家を買い、子供を学校にやり、60過ぎで定年退職、みたいな一昔前の日本人のモデルケースの呪縛から抜け出せていない日本社会の空気に無意識に取り込まれてしまっている。いい大学を出ていないと、いい人生じゃない。30歳までに年収が何百万無いと不幸だ。35歳までに結婚していて当たり前だ。などと、誰かが決めた時代遅れの「普通」であることを目標とする。はっきり言おう。周りの評価など無くていい。ある記事を見た。パナマでは人生は楽しむことが第一で、楽しむために生きている、ということが書かれてあった。働くことに重点を置いている日本人の働き方は冷たくあしらわれたという。パナマでは、真面目が好かれないそうだ。真面目に生きるより、楽しく生きる。私たちは、もっと楽しむことが大切ではないだろうか。しかし、私は一般以上に「楽しみ方」を知らない人間だ。一日家にいても、ご飯を食べてネットを見るくらいで、「今日もたいしたことがなかったな」などと、「楽しい!」を感じられていないことが多い。そんなときに考えるのは自分の脳の使い方を変える、考え方を変えて「楽しいということにする」ことだ。朝起きて、朝日を浴びる。もっと喜べる。しかし、(こんなことで喜んでても、お金は無いし…)などと考えるだろう。金がなくても、朝日が光っているのは変わらない。一日16時間は起きてるんだから、今目の前にある朝日の光は喜んでもいいんじゃないか。そのあと2分後に「死にたい」が顔を出したとしても。朝ごはんの卵焼きを食べているときの口の中の味の変化に注目してもいいんじゃないか。例え、たいしておいしいと思わなくても、歯ごたえや舌触りを楽しいということにする。本当に思ってなくても、楽しいということにする。なんだったら、常に楽しい事しかしていないことにする。それでも、頭の中には「死にたい」でいっぱいということもあるだろう。「あの人はあんなに明るくて可愛いのに、私は何も持ってない」、という人との比較や、「俺は有名になれなかった」などの、かなわなかった思い。そういうときは、どんなときも、自分を許すこと。他の人間の幸せも願うこと。私は、人の幸せを願うようになったら少し楽になった。当然、完璧にはいかない。「なんであいつばかりうまくいってるんだ!」と嫉妬もするし、「俺には何もない…」などと思うこともしょっちゅうだ。ただ、人の幸せを願って、その人が幸せになるならば、それはうれしいということになるだろう?私が「死にたい」と思ったときは、「これは幸せを願うチャンス!」と思っている。自分を馬鹿にするやつも、怒鳴るやつも、話の分からないやつも幸せでいい。そして、完璧でもなく、何も持ってない自分を許す。高いハードルは、くぐる。そうやって、「死にたい」というものから距離をとる。そして、たまに外側から「死にたい」というものを見つめてみたりして、「楽しいということ人生」を「不完全」に実行中である。