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みそ汁の具

明治朝廷をぶった切る 蹴散らし 叩き潰し ぺちゃんこにする為 強記する!!『たまに更新します』

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同盟ブロガーであり愚拙の兄弟分である、
あの人気ブロガー『有門大輔』が在特会に復帰し、久々にそのデモで演説をしたのでその模様が載ってるブログ記事を紹介!!無論、最右翼勢力ブログと同特連ブログからである。下の二つのリンクをクリックしてお読み下さい。動画もその内に上がると思います。興味のある人は検索して探してみてください。

最右翼勢力ブログ『革命による共生思想の転覆を!』

同特連ブログ『10・27朝鮮人売春婦追放の鶯谷デモ!』

在特会と言うのは、排外主義を標榜する日本で一番勢力の大きな団体である事は知れていると思うが、我々日本一の排外主義を標榜してきた最右翼勢力からすると、さほど強い排外主義思想は持ち得てはいないと判断する。

だが今回、その日本一の排外主義思想を標榜する最右翼勢力の頭取である、『有門大輔』の在特会への復帰により、より一段と、在特会が保持する良心である、排外主義からなる愛国心の先行きが研ぎ澄まされるであろう事が期待される。またそれにより日本の場末の愛国運動が、より一層、本物として深まっていければ良いと思う。

今回のデモは鶯谷で行われました。紹介した記事を読んで貰えれば解る通り、この辺りの地域を『反日勢力の牙城』とした紹介がされています。悲しい事ですが事実でしょう。ではなぜこの辺りが反日『勢力の牙城』となってしまったのか?

鶯谷は上野に隣接している地域ですが、上野と言えば、江戸時代において日本の聖地でした。江戸の町の都市設計は京を模して作られています。その江戸の鬼門(丑寅)の方角、つまり京で言うならば比叡山(天台宗)の方角と一緒のところに上野は存在します。そこで、
上野の地に江戸の守護を負わせる為に寛永寺(天台宗)が創建されると、その聖地と共に江戸は日本文化を育みながら栄えていきました。ちなみにその鬼門の延長線上に栃木の日光山(輪王寺・天台宗)が存在します。比叡山延暦寺や日光山輪王寺や上野寛永寺の守護神は山王権現ですが、この神が王城の一番重要な鬼門の通り道を守護する役割をします。そこで山王権現が悪霊を倒し、鎮護国家の大役を果たしてきてくれたおかげで、日本は国体の維持ができ五穀豊穣ある歴史を歩み続けてこれたのです。このように山王権現は日本の東西の王城において真摯に永らく信仰の対象とされてきましたが、幕末、西南軍により上野が破壊をされてしまった以降は露と消えてしまいました。

以降、明治政府は、この日本人が有史以来持ってきた伝統文化
・信仰を迷信として、また邪悪のものといった決めつけをしては全否定をし出します。明治政府は、自身が如何に儒教国家体質を持っているかといった事が露呈する事となる政策である神仏分離・廃仏棄釈(俗の名称)を発令していく事となるのですが、これにより日本の神仏は破壊しつくされます。代わりに明治政府は国家神道という名の、中身は儒教(朱子学)でしかない新興カルトを作り上げ、新たな信仰として日本人に対して押しつけることで、日本人は精神侵略を受ける事ととなり、お上に逆らえない体質を持たされる事で牙を抜かれ支配され今日に至ります。非情にも明治以降の日本の社会とは、日本民族を従属させるにもっとも都合の良いシステムである儒教体制が、明治政府の手によって整われてしまったのです。


この儒教体制の源流こそが、まさしく上野でデカイツラをしてつっ立っている侵略者の銅像ポンスケこと西郷隆盛なのです。このポンスケの故郷である薩摩(鹿児島)では、江戸時代まで、儒教体制さながらの奴隷制度が存在していたのです。そこで奴隷を直接監視する役割を担ってたのがポンスケに代表される郷士です。つまり薩摩の郷士とは、薩摩階級制度においての末端社員として差別的な役割を果たしていた存在なのです。


なぜ明治政府は、江戸の鬼門の一番大事な場所にポンスケの銅像を建てたのか?

鬼門の通り道は、最大の聖域なのです。なので元来の日本人の持っていた信仰心に照らし合わせて考えてみれば答えは簡単に出るはずですね、鬼門の守護神である山王権現の通り道をふさいでしまったら、世間に悪霊が蔓延る事はなんら不思議な事ではありません。だから、上野界隈が『反日の牙城』であるといった姿は当たり前の事として起こるべくして起きただけなのです。これは明治政府による意図とした日本を陥れる為の政策であった事が伺いしれます。つまり日本人を奴隷として使役する為に監視役としてポンスケの銅像が勧請されると、その使い魔である悪霊を放つ事で『反日の牙城』として上野界隈を改悪していったのです。。


西郷隆盛という者は幕末、なにをしていたか?このポンスケのやっていた事といえば江戸や京での無差別殺戮です。江戸や京を破壊する為にテロリストを指揮していたんです。しかもバレないように本名を偽り通名偽名を使ってだ!そうまさしく成り済ましの源流です。こんなポンスケを美化してるかぎり、日本はまともな国家へと正常化する事は絶対にないであろう。一日でも早く、日本人は、この西郷らポンスケに代表される、成り済ましらが支配する極悪非道の明治体制の垂れ流す嘘偽りだらけの薩長自画自賛史からの脱却を試みる必要があるはずだ。



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「薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることく、見る所の財、剽窃せざることなく、あるいは人の鶏牛をぬすみ、あるいは人の婦女に淫し、発掘、殺戮、残酷極まる。なおかつ靦然(厚かましい)として官軍の名号を仮りる。これ今上陛下をして桀紂(伝説の大悪人)の名を負わしめるなり」

幕末史に燦然と輝く真実を貫いた激文『討薩檄』からの一文を掲載してみました。さすが日本有史に並ぶものがないと言われる名文だけあって、未だ力強さがみなぎってきますね。起草者の米沢藩士雲井龍雄は明治以降は無名の士ですが、幕末当時は知らぬ者の居ない名士でした。

少し時間を『大政奉還』に戻します。この徳川幕府の行った内部クーデターである大政奉還により、本当ならば近代日本は無血革命となるはずでしたが、残念ながら薩摩長州の策略に嵌められてしまい無欠革命とは成りませんでした。

大政奉還後、すぐに朝廷で『小御所会議』が開かれます。朝廷といっても、すでにその当時、薩摩長州が幼い明治天皇を利用して支配をしていた事は周知の事実でした。なのでその小御所会議の内容はかなり歪な悪意があり卑猥なものでして、大政奉還を成し遂げた徳川家の領地を全て没収すると言う、いわゆる『辞官納地』が決定されてます。何故に大政奉還をし、自らが権力を手放した『王政復古』の最大の功労者である徳川家が朝廷に敵視をされては『辞官納地』という極めて差別的である無条件降伏を強いられるのか?未だこの疑問は解けません。

何にせよ、こうなると幕臣達は路頭に迷うので戦争をせざる負えない状況に追い込まれしまいました。つまり『辞官納地』の決定とは、戦争をふっかける為の薩摩長州による徳川家に対する挑発としか言いようがないものでしかないと思われます。この差別的な取り決めに対し、それでも徳川家は忍びます。そこで薩摩長州が次に手をうった行為が江戸市中でのテロ行為です。

西郷隆盛の部下達が江戸で無差別殺戮、強姦、強盗を繰り広げます。そこで当時江戸市中取締であった庄内藩が、テロリスト犯を匿う薩摩藩に対し、犯人の身柄引き渡しを求めますが無視をされ続けます。よって凶悪犯罪者の横暴が更に酷くなり、治安がますます悪化する事となりました。そこでもう黙ってはいられないと、庄内藩は怒りの拳を握り立ち上がり、偽名、通名、成り済まし共が蔓延る凶悪テロ犯の巣窟である薩摩藩邸を焼き討ちにします。そうしたら待ってましたと言わんばかりに薩摩は狂喜乱舞し被害者ぶり、これを大義名分にし、幼い明治天皇を担ぎだし、官軍のふりをし、庄内藩を賊軍扱いし、本来ならば無用であるはずの戦争をふっかけ、イギリス武器商人の懐を潤わせるだけでしかない戊辰戦争へと発展させ、血なまぐさい革命(明治維新)へと日本国を陥れていったのです。


戊辰戦争当初、賊軍扱いされたのは、この庄内藩と会津藩の二藩だけでした。つまり征夷大将軍のお膝元である江戸市中取締の庄内藩と、天皇を守護する京都守護職の会津藩が賊軍とされたのです。可笑しなものです。孝明天皇が最も信頼を寄せていた会津藩と、孝明天皇が幾度もなく念入りに勅旨を発し政治を一任していた江戸(徳川幕府)を守護する庄内藩の両藩が、こともあろうに孝明天皇が崩御(暗殺)された途端に狙い撃ちをされたかの如く賊軍扱いされる始末です。


当初、『討薩檄』の起草者である雲井龍雄の米沢藩や奥羽諸藩は薩摩長州が率いる西南軍の尖兵となってましたが、あまりにも醜い西南軍による奥羽地方での横暴(実はこれも奥羽に戦争をふっかける為の意図した挑発だった)に溜まりかね、庄内・会津以外の奥羽藩によって奥羽列藩同盟(後の奥羽越列藩同盟)が結ばれ、西南軍に反旗を翻すことになりました。それが前出の檄文の誕生となりました。


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最右翼勢力

同特連

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日本は嘘に支配されてるので勘違いしてる人が多いのは無理はないが、実に近代日本軍の創始者は、海軍を十四代将軍徳川家茂が、陸軍を十五代将軍徳川慶喜が創設してます。つまり明治以降ではなく、徳川幕府治世下で行われた事なのです。。

まず最初に海軍の創設を手がける。理由は無論、国防が為です。日本は四方を海に囲まれてるので海軍の近代化を急務としました。

家茂は、部下に井伊直弼を従え、列強各国と通称条約を結ばせると、その弟子である小栗上野介に近代海軍設立を一任させます。すると小栗はフランス公使レオン・ロッシュに依頼し、横須賀製鉄所(横須賀海軍工廠)の建設を行う。これが近現代の日本海軍の礎となり未だに日本を守る最大の要として(米国第7艦隊の母港)、現役で操業されてます。

だが…悲しい事であるが、徳川家茂は国内に敵を見いだしませんでした。日本と言う国は、海軍をいくら強靭にしても陸軍が惰弱だと内戦を制せません。それが第二次長州征伐に失敗した理由でもあります。つまり外患誘致・内乱を想定していなかったのです。無論、後に気づくが、時遅く、病没する(暗殺?)。

次に将軍となったが徳川慶喜、速やかに陸軍改革を行わせます。小栗上野介、またまた登場!

で、小栗が主導し、フランス式の陸軍へと改革が成されます。慶応三年末には歩兵七個連隊、騎兵一隊、砲兵四隊のナポレオン三世仕込みの最強陸軍が創設されました。

戊辰戦争前夜、小栗上野介は現実主義者ですので徹底した主戦論者でした。自分の作った東洋最強の陸海軍に絶対的な信頼を持ってもいます。だが残念ながら報われませんでした。
徳川慶喜が率いる幕府は敵に恭順します。理由は、慶喜は水戸藩出身です。水戸藩は尊皇学の祖藩です。ので…悲しい事だが、『の錦の御旗』に対してすらも弓を引くことが出来なかった。

慶応四年四月、小栗は薩長率いる西南軍に理由もなく逮捕され斬首されています。昭和の太平洋戦争を見ても分かると思いますが、普通は勝った側は形だけでも裁判をするものです。そうしとけば時代が下るにつれて明らかになる事実というものが必ず出てくるというものです。文明人は普通その事を認識しているものですが、どうも西南人を見ていると、その文明人として当たり前のように持たなければいけない常識を持っているようには見受けられない。新選組局長近藤勇に対する一方的な斬首にしてもそうだが、まるでどこぞの人権団体の糾弾会を彷彿とさせるやり口を見せられている思いがして甚だ気分が悪いものである。

この何者とも判別のつかなくなった得体の知れぬ薄気味の悪い者達に支配をされてしまっている明治以降の体制が一刻も早く倒壊する事を望む。日本の未来の為にも、虐殺された小栗や日本人父祖の弔いの出来る世が来ることを強く望みましょう!

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