羽村郷土博物館で以前聴いた話が面白かったので、解説を予約した上で、知り合いを誘って再訪した。
羽村と玉川上水の歴史について、前に書いた内容と重なる所もあるが、記憶に残った所を書いた。長くなります。なお、聞き取りメモなのでミスがあるかもしれない。判ったら訂正します。

・この博物館には毎年授業の一環で小学4年生が来るので、それに合った展示内容になっている。
●昔の歴史
・古くは縄文中期の土器が羽村駅と同じ台地から出土している。
・その後は古墳時代になり、低地の水田跡から土器が出土している。
・羽村をハムラと昔から発音していたのは、葉村と書いた文書が残っているので分かる。
・「大日本国武州杣保長淵郷羽村」と記載された1536年の棟札があるので、昔の羽村は今は青梅の長淵郷の一部だった。これから羽村という名前は、長淵郷の「はしのむら」という所から由来すると想像される。また、大日本国と言っているので国の概念があったことが判る。
・今の井戸は垂直に掘られるが、まいまいずの井戸は土手と同じ角度に掘られた井戸だ。板碑が出ており、中世13~16世紀のもので、その頃から住んでいたと思われる。
・江戸時代、水のない台地では小麦が主に栽培された。それで武蔵野うどんがある。車屋は小麦を引いた水車小屋のこと。蚕も飼われていた。
●玉川上水
・江戸時代初期に玉川上水が羽村から江戸に引かれた。玉川兄弟はその国家プロジェクトを受注したゼネコンの社長のようなものだった。
・8~9か月で掘ったが、大勢の人数で分けて、競争させながら掘ったのだろう。100m当り21cmの勾配で掘った。
・提灯で測量して掘ったという説があるが、当時でも測量技術はあったのでそれはないだろう。羽村から都心までの43㎞のどこを通すかといった計画段階ではあったかもしれない。
・玉川上水は国の史跡になっており、取り込み水門は土木遺産認定を受けている。
・水門を洪水で壊さないよう3段階の工夫がある。(1)三角枠、蛇籠による透過水制、(2)横堰、湾曲斜め堰 、(3)木や枝でできた投げ渡し堰、水流が激しいと壊れるようにできている。
・玉川上水の水はポンプアップなしで村山貯水池に上がっている。
・玉川上水は上水道であり、農業用水ではなかった。野火止用水などに分水されているが、各家に引き込まれて飲み水として使われた。例外的に端では農地に使われた所もある。
・江戸で武家屋敷に水が引かれたが、これは軍事用水、防火用水でもあった。
・江戸の地下を走る上水樋は木を断面凹字型に切り抜き、それの上部に木蓋を鍛鉄釘で留めたものだった。それを水道桝を介しながら繋いだ。水道桝は塵が入らないよう下に広い形のものを何段か積んで蓋をした。蓋をしないで井戸として使われた。
・1600年代、日本中で上水ができていた。仙台、金沢、水戸、甲府、小田原、福山、鹿児島。
・玉川上水には水番人という有力者がいて、上水道の管理をやっていた。指田氏、砂川氏など。
●近代の歴史
・水番人は修理などのため、人・物・金・情報を持っており、近代になって通船、馬車鉄道などに手を出し、成功しなかったので、青梅鉄道を引いた(1894年)。羽村には羽村と小作の2つの駅ができた。
・水番人が中心となって明治時代の台地には桑畑が広がり、養蚕が盛んだった。養蚕の学校があったほどの中心地だった。(狭山はお茶を選択したが、羽村は養蚕だった)
・畑の85%が桑畑だったほど盛んだったが、昭和初期の恐慌で破たんした。
・戦後の農地解放後、国策で広い桑畑の跡地で牛を飼うようになった。
・首都圏整備法に基づき、羽村は都市化が進められた。広い土地は工業団地になり、狭まった土地でもできる養豚が行われた。前に牛を飼った経験が生きた。横田基地の残飯が使われた。福生に大多摩ハムなどがある。横田基地はハムの消費地でもあった。
・展示写真を見ると、昭和22年は一面の桑畑、39年は豚を飼っている、43年は工場用地が区画整理がされている。

館内では写真を撮るのに許可が要ったので撮らなかった。写真は外の旧下田家住宅(国重文)で、この住宅は昭和50年代まで使われていた普通の民家を移設したもの。
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