夕食を囲む場で、我が子から不登校児童へのかかわり方の話が出ました。

 

意外なくらいに精神論バリバリという意見表明だったので、さっそく中二病患いを疑いました。

 

そうすると、その矛先が意外に方向に向きました。

 

「中学受験で勉強していた時も、親は威圧感バリバリだったのを感じていた」そうです。

 

何でも、通信教育の定期試験で成績が下がると、言葉に出さなくても顔を見ればわかっていたそうです。

 

「試験は理解できていることとそうではないことを見つける場だからね。解き直しをして理解を深めて、次の試験に備えようか」と、ほぼ毎回のように伝えていたのですが、本人の心の目で見ると、威圧感バリバリだったのだろうと思います。

 

そりゃ、我が子大事な親だから、そして生き物たる人ですから、心がピクリとも乱れないなんてあるはずもなく。

 

 

「私だって(学校に)行きたくない時がある」

 

「どんな時なの」

 

「休みの日の終わりごろや眠い朝だよ」

 

「そりゃ、皆行きたくないわ」

 

そして間をおいて、お互いに笑いとなりました。

 

 

「じゃあ、どうして行くの」

 

「行かないといけないから」

 

「それより、先のことを見据えているからじゃないの」

 

「何であの人たちは見据えないのだろう」

 

「それくらい、耐えられない時があるからじゃないかな」

 

 

「行きたくないなぁ…と思ったけれど学校へ着いた後、やっぱり来なければよかったと思うの」

 

「そう思うこともあるけど、やることがたくさんあるから。でも、五月病って甘い。精神的にたるんでいる」

 

「そうやって逃げていたら、絶対に不登校が続くことになる」

 

 

「昔は、親が子供に付き添って、ギャーギャー言っても引き釣り出していたことがあるよ。それに感情的に反発して、制服を改造して派手に見えるようにしたり、先生にたてつく生徒がいたよ。そういう意味では、反抗心があるだけ無気力ではなかった印象だったよ」

 

「そうでしょ」

 

「でもね。中学受験の学習中に、親が成績の上下でギャーギャー言っていたら、それで成績がよくなったと思うの。もし思うなら、これからの中間や期末テストでやらかしたほうがいいのかな」

 

「(ニヤッと笑って)いや、それはまた話が別で…(笑)」

 

 

こんなやり取りを続けていると、妻がとっくにあきれ顔になっていました。

 

子供が床に就いた後で、妻は我が子のことを心配しているようでした。

 

ただ、自分自身が中学生の頃、似たような傾向を示す時期があったことを指摘したら、覚えていないとの返答でした。

 

私の場合、こんな頃も喘息発作頻発で全く異なる青春でしたが、それゆえの現状への反発心は強かったです。

 

健康が維持されているからこそ、毎日、健常者が通う学校に通うことができるのです。

 

人によっては部活動に打ち込むことができます。

 

加えて、人付き合い一つ、身体的、精神的健康が保たれていて、はじめて可能なことです。

 

 

裏を返せば、我が子は健康が当たり前であるからこそ、不登校の子供の気持ちが理解できないことを伝えているのです。

 

親は自らの知識を、我が子の理解力に応じてかみ砕いて提示して、そこから自身の考え方を言葉にできることが大切だと考えています。

 

それこそ、我が子が持ち出した自身の中学受験の経験ではありませんが、子に任せたら結果を出すまで、ひたすら待つことが必要です。

 

日々の身の回りの世話や教材準備などは計画的に行い、準備できたことは伝える必要があります。

 

また取り組んだ問題と正誤、その過程の把握は必須です。

 

しかし、学び続けている子にあれこれ言わず、「待つ」ことが求められているのが、自ら行動している子への配慮です。

 

思考錯誤も、先に役立つ経験の一つです。

 

 

人生初の中間テスト前でピリピリしているから、こんな会話になったのかもしれません。

 

どうあがいても「人」です。

 

他人と相対比較して非難めいたことを口にしたりするのも、我が子自身に負荷がかかっていても、まだ心にゆとりがある証拠です。

 

AI(人工知能)の深層学習と一緒で、適切な事前教育なしはあり得ません。

 

我が子にとって、中学受験の学習中に威圧感バリバリに見えた親であっても、頭に浮かんだことが口に出せる親であり続けたいです。