4月17日の早朝。
YouTube動画をダラ見していたら、
「モンキー・パンチさんを偲んで」と言うタイトルの動画に行き当たり、
2019/04/16 に公開だったため、
モンキー・パンチさん死去 81歳「ルパン三世」シリーズ原作者「2、3年前から体調を崩す」
人気アニメ「ルパン三世」の原作者で、漫画家のモンキー・パンチ(本名加藤一彦=かとう・かずひこ)さんが11日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため死去した。81歳。北海道浜中町出身。葬儀は近親者のみで営まれた。後日、偲(しの)ぶ会が開かれる。世界的大泥棒ながら、半世紀以上も愛される“ダークヒーロー”ルパンを生み出し、漫画やアニメが大人も楽しめるジャンルとなる礎を築いた。
70年代からお茶の間を魅了し続ける人気アニメの生みの親が逝った。
アニメ関係者によると「2、3年前から体調を崩し、故郷の北海道浜中町で毎年参加していたイベントも欠席しがちだった」という。それでも作品50周年の2017年には車椅子で出席。「僕だけの力でなく、いろんな方に手伝ってもらったから。100年続けばいいな」と話していた。
↑2015年頃のモンキー・パンチ氏。
高校卒業後に上京。電気関係の専門学校を経て、商社や貸本出版社などで働きながら同人誌を作った。アメコミに影響を受けた独特の画風が編集者の目に留まり、65年に漫画家デビューした。
「モンキー・パンチ」は新人時代、漫画誌の編集長が命名。無国籍でシャレた画風からで、モンキーさんは「格好悪い」と抵抗したが一蹴されたという。
「ルパン三世」は67年、漫画アクション(双葉社)創刊号で連載開始。
主人公はアルセーヌ・ルパンの孫であり、大泥棒のルパン三世。従来なら“悪役”だが、アクションありコメディーありの、奥行きある世界観が読者の心をつかんだ。
71年にアニメ化されると、幅広い年齢層の人気を獲得。
連載開始から半世紀が過ぎた今も、新作アニメや映画が製作される国民的人気作となった。
アニメ関係者は「凄く真面目で勉強熱心な人。一方で作画にパソコンを取り入れるなど、頭の柔らかい人でもあった」。デジタル機器での作画に早くから取り組み、03年に東京工科大の大学院で編集ソフトを作るプログラムを学習。デジタルマンガ協会を創設した。
日本アニメが“子供向け”とされた90年代以前の海外で、高く評価された作品でもあった。大人の雰囲気をまとった「ルパン」は、フランスやイタリアを中心に多くのファンを得て“クールジャパン”の先駆けとなった作家の一人だった。
漫画連載は途絶えているが明確な最終回は掲載されていない。07年のスポニチ本紙の取材に「最終回の構想もあったが、今は思案中。完結させないままバトンを渡すのもいい」と話し、次世代の作家に託す意向も示していた。
◆モンキー・パンチ(本名加藤一彦=かとう・かずひこ)1937年(昭12)5月26日生まれ、北海道出身。アメリカンコミックに影響を受けて、小学5、6年のころから漫画を描き始める。大学進学のために上京。65年にムタ永二名義の「プレイボーイ入門」でデビュー。「ルパン三世」のほか「どらきゅらクン」などの作品がある。
17日の朝方には、過去記事(ルパン三世の真実を漫画『ルーザーズ』が教えてくれる)へのコメントで、
常連のJOEさんからも、ご通知が。
JOE
改めて氏の日本におけるコミックとアニメに果たした多大なる功績に想いを馳せると共に、この場にてご冥福をお祈り致します。
さて、こちらの記事ではルパン三世の作者は一貫してモンキーパンチこと加藤一彦氏である事で決着がついておりますが、実はこんな画像を見つけました。
この加藤輝彦氏のサインによせて描かれたルパンは、一彦氏晩年のルパンよりもよほど初期ルパンの絵柄に近いのではないでしょうか。
いずれにせよ、もし輝彦氏がご健在であれば、今後のメディアでのルパン三世の取り扱いによって、自ずと明らかになってゆくのではないかと思っております。
コメント、ありがとうございました。
でもしかし、
自説にこだわるあまり、
まだそんなことを言い張り続けるのは、
その手の流言飛語対策として「ルーザーズ」を発表した、
関係者一同、
ひいては加藤一彦氏のご遺志にも背くのではないでしょうか。
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↓ここにもまとめましたが、
弟の輝彦氏の方がマンガ家デビューは先で、二人は同居していたこともあり、
兄一彦の双葉社でのプロ初期作品を、
弟の輝彦も手伝った。
これが真相で、
弟の輝彦氏が1999年に描いたルパンの絵柄が初期のままなのは、
それ以降関わっていないから。
兄の一彦氏はルパンを描き続けたため、
絵柄が次第に変化した。
この件に関しては、
これ以上語っても仕方ありません。
そこで今回は、
モンキー・パンチ氏について、
もう少し個人的な思い出を書いておきたい。
私は、
乃木坂46の北野日奈子が通っていた、
(デビュー後は忙しくなって辞めた)
千葉県八千代市の私立高校に、
それよりうんと前、
1993年から2002年までの10年間、
英語教師として勤めていた。
この高校は、
なぜか女子生徒が粒ぞろいで、
私の勤務期間中でも、北野日奈子レベルか、
それより上の、カワイくて美人揃いだった。
私の授業は雑談ばかりで、
生徒には勉強にならなかっただろうが、
ある日、
授業がおわると、
とびきりの美少女生徒、
本田翼と
篠﨑愛を
足して二で割ったみたいにつるんとした顔の子が教卓に近づいて来た。
個人的には、
北野日奈子より美人だったのでラッキーだった(…)が、
とにかく彼女が近づいて来たのは、
どうやらこちらが雑談で触れた「ルパン三世」に反応しているらしい。
「先生、私ん家(ち)の近くにモンキー・パンチ先生の家があるんだよ。
サインをもらいに行ったら、パンチ先生はご不在で、もらっておきますと約束されて、
後でしっかりいただいたんだよ」
とのことだった。
モンキー・パンチ氏はマンガのデジタル化に意欲的で、
当時はマック関連イベントが幕張で頻繁に行われていたことから、
千葉県に居を構えたそうだが、
まさか勤務校のご近所だとはね。
やがて卒業生の一人(左)がベリーダンサーに成長。
2009年頃、
作家転向の意志がかなわず、
作品発表の道を探っていた私は、
彼女もモンキー・パンチ邸の近所だと知り、
ありがたくもそのベリーダンサーのお母様の案内で、
念願のモンキー・パンチ氏私邸の門前に立ち、
直々に私の自作を読んでいただく交渉に入ろうと。
つくづく時代は変わったよな、
の感慨は、
1971年の「ルパン三世」アニメ第1回初放送は、
日曜日の夜7時半からで、
母親からテレビ視聴を妨げられ、
TBSの「美しきチャレンジャー」にチャンネルを変えられたのに、
エッチでエロい「ルパン三世」に、
現代では女性がためらいなく関わろうとしているところ。
とにかく事前連絡もできずにいきなりの邸宅訪問では私邸から応答はなく、
やむをえず、
原稿の分厚い束をポストに投函して、その日は虚しく帰宅した。
しばらく返事がなかったが、
どの機関に打診しても無反応があたりまえだったため、
そんなもんだよなとあきらめていたところ、
半年ほど経ってから、
モンキー・パンチ先生ご本人から、
一通のお手紙が。
千葉県佐倉市の私邸/作画スタジオはすでに転居されており、
半年ぶりに再訪して、
私の原稿の束を受け取り、
感想を送って下さった。
内容を認めていただき、
これから可能なこと、
期待できなさそうなことが区別して述べられていた。
転居先の住所は記されておらず、
それ以上のコンタクトはかなわなかったが、
自作に感想やご意見がいただけたのは、ありがたかった。
思えばあの頃から、
パンチ氏はもう新作の執筆はせず、
アニメ化や実写映画化の権利は、
しかるべき後継者に委託されているようだった。
そして昨年の2018年。
常連のフラユシュさんに教えていただき、
「ルーザーズ」を読み、
停滞する事態打開のために、
100の関係機関に原稿を送りながら、
返事や反応は双葉社ただ一社だった、
加藤一彦氏のデビュー前の苦境を知って、
なるほど、同じ地平に立った方なんだなと、
返事をいただいたことに妙に納得した。
希望や道は必ずある。
モンキー・パンチ先生、
ありがとうございました。