月歌夜奏 -7ページ目

月歌夜奏

GeKkaYaSo

見世物小屋で特異な姿の人間を観て異形の風体を目の当たりにし、
好奇と露悪趣味を充分に満たし、日常と違う瞬間を変身の一環として楽しむ。

ポルノで自分の慢性的な性的欲求を、一時的に爆発力の高い映像を再生し、
再生・停止ボタンで自分本位にその生理的欲求と感情を操作・処理する。

お化け屋敷で自分の想像と期待の範囲内の安全な未知への恐怖を体感し、
自分の恐怖中枢の性能の確認、及び克服した錯覚で誤魔化し満足する。

ヒューマンドラマの中に出て来る殊更不幸なキャラクターを観て、
現在の自分の姿と比較して「こいつよりはマシ。こいつよりは幸福」と安堵する。

---------

 

所謂「知的障害者」とか「精神障害者」とかの立場に置かれている人が居る。
人間はスタンドアローンで在りながら、その能力の限界を突破の方法として
社会と形を為したネットワークを作り支え合うものだ。

それを一方的に享受している厄介者として扱われている氣がしてならないのだ。
それが哀しく怒りを覚えて絶望感に包まれてしまうのだ。

作り上げたネットワークの社会が閉鎖的で選民的に始まるのは解かる。
より速い馬が人工的に交配に拠って作られていくサラブレッドの様だ。


そこには意識的な人間の意思が働いている。
一体、誰の意思だろうか。

 

---------


「健常者」と呼ばれる人も反面存在してしまう。

誤解も生むし憤りを感じる人が居るで在ろうが
(居て欲しいと云う願いを強く籠めるものである)
その大多数、健常者から笑いもの・慰み者にされることと引き換えに
突拍子も無いところで大声出したり、訳の解らないことを喚いてたりしても
「ウケる」で嘲笑って片付けられる、
言うなれば笑いものの代償に『健常者さんたちは許してやっている』。
 

受け容れろなんて言いたくないし、

笑っちゃうものは笑ってしまうからとでも尤もらしく嘯くんだろう?
 

そんな自分に疑問を持たずに言い訳を続けるのならば、
そこでずっとそうしているがいい。


唯、これだけは言う。


くたばりやがれ!


弱視の人間がどう頑張っても裸眼で物体が見え難い様に、
右手の欠損者が右手を使えない様に、
その部分が欠けて居たらどうしようも出来ないことが有るのだ。


勿論、だからと言って欠けていることに甘えてはいけない。

---------

何を以て「健常者」だろう。
大なり小なり我々は画一化された工業製品の様には行かない。
加齢で衰えていく部分も在れば、
年齢を重ねる中の経験で練達し平均を越える能力を手にする者も居る。

一般的に云う「一般人」と同じ思考や行動が出来ない。
それでもこの「社会」で何とかしていかなければならない。
生きていく為には。生きていたいのならば。


その努力を怠っているならば
「自分はこうだから」と社会に背を向け我を張るのならば、
社会に生きる人々から異端視され拒絶され爪弾きにされても
それは因果応報と云うものだと認識している。
甘ったれているだけに他ならないと感じるからね。

 

---------


隠遁者になることを望まないなら、自分自身で「社会」を形成する方法だって有る。


我を張って「社会なんて関係無え」と嘯くなら、
社会資源の活用も制限されたり放棄を余儀無くされるのは当然だと思っています。


併し、何とかしてこの社会に適合してやっていこうとしていたり、
本人が意思を万人に表現出来ずに、
本人の意思を汲み取れる近親者がサポートしている状況ならば
それを嗤うことをあなたはどう思うのか。

---------

目には視得難いものは少なく在りません。
物理的に視得るものから得られる情報の限界は在ると思います。

明らかに半身麻痺で在ったり、白杖を使いゆっくり歩いている方がいらっしゃるとして、
その方々がよろけたりするのを、あなたが背中を突き飛ばして転んでしまうことを望むのか?

悪意の有る者が盲目で在ることを好機と捉えて金品を強奪するのを見て
あなたは「外に出歩いているのがいけない」などと思うのか?

---------

精神的や知的な障害は中々物理的には一瞥して判らないものが多いと思います。

特に氣を遣い、腫物に触る様な扱いをする必要は無いと考えますが、
態々、一所懸命にやっているところで邪魔をしたりして面白がる様な
そう云った考え方が私は相容れないのです。

そんなものは「個性」や「特性」とは思わずに根絶やしにしてやりたいとさえ考えます。
 

『相手が存在する物事で自分の意思だけを100%実現し、その結果”蹂躙”する』
これだけは私は絶対に容認出来ない。

勿論、簡単に行かないことだと感じていますし、
何が『迷惑になる』かは個々の価値観に拠るものだから、

一つのルールを立てて実行するのは乱暴だと思う。

「経験」とそれに基づいた「倫理観・道徳」が求められると思います。
それを磨くのが人格完成に向けて人生を楽しむと云うことだと私は思うのです。

誰かの苦しみ泣いている姿を肴に酒を飲むことを楽しいとは感じない。

尚、「くたばりやがれ!」は誰かの生命に向けたものでは無い。
そう云うものを嗤う心境に対して放っています。


それが「氣付き」だと思うんですけどどうでしょうか?

凄く色々なことが誰しもと同じく日常的に私の身の周りにも有り、
それ故、とても色々なことに想いや念いを巡らせて居る。

 

全てを書き留めて置きたいのだが、精神か肉体かどちらかのバランスが崩れたりなんだりで、
そうなると恥ずかしながら『書いては消し、書いては消し』を繰り返す。
推敲などと云う褒められたものでは無い。
自分の中の矛盾や二面性、見方を変える客観性と思しきものの為だ。
第三者の外的影響に因っての変化ならばブレると云った表現にもなろうが、
自分の内なる氣付きから来るもので在れば元の軌道には戻れない。
それは"振れ"などと云う反復運動とは完全に異質の存在だろうと覚えている。

そして本日に至って居る訳なのだが
余すこと無く此処に遺して置かなければ
このBlogを始めようとした原初の炎を違えてしまう。

それでは過去と未来の自分を裏切ることになるだろう。

---------

閑話休題。

喩えば『薔薇の花が好き』だとしよう。

・(薔薇は好きだけど)棘が刺さると痛い。

 だから棘は取ってしまおう。

・(薔薇は好きだけど)虫が付いてしまうのが嫌。
 だから土に植えて置くのはやめよう。

・(薔薇は好きだけど)枯れた姿を見るのは悲しい。
 だから「薔薇の造花」にしようかな。

貴方は私から見たら薔薇が好きとは思えない。

それは薔薇じゃ無い。
薔薇の姿をした別の何かだ。

好きなのは薔薇の姿形の外見だけ。

こんなことは今更な話題なので話題にするまでも無いことで、
よく解ってるからこそ世の皆さんは敢えて馬鹿馬鹿しいから言わないのだろうけれど、

(上記は殆ど私の投稿には冒頭に付けたいと感じます。Blogは時として自分への確認作業)

『○○の人は凄い!優れている』などの系統の記事や投稿に、
鼻孔を膨らませて誇らし氣に同調したコメントして居たりする人が存在しているのを見る。


それだけ言っていればまだ見えないフリで甘んじることも辞さないものの、

特定の国家や生まれ持った国籍や民族と云う、
動かし様の無いものを引き合いに出して蔑みを加えるのをセットにした上で
優越感に浸る人の存在は甘受出来かねる。

同じ民族の立場としたら、恥ずかしさを覚えるが如何で在ろうか。

---------

そのコメント自体から読み取れる部分にだけ於いて感じることを申さば、

自分は「何にもしない・出来ない・やったことも無い」のでは無かろうかなる印象を持つのだが
こう云った私は特殊なのでしょうか。
 

やってる人は一々こんな記事に必要以上の賛辞や民族礼賛をしないと思うんですよ。

況してや他を引き合いに話題にも出ていないのに態々引っ張り出して来る様なことも。

---------

何かに取り組んだり、やってる最中だったり、

自分の中で納得や満足のいく結果を見た実践派の人は
”自分のこと”が先立つので、他者の成功や功績に対しては

「頑張ってる素晴らしい連中が居るな。私も益々精進しよう」

と考えると思うんですけど違うのか?

 

羨望を感じたら「じゃあよりもっと凄いことをやろう」とならないのですか?
その人が達成した事実は不変のものなのに?
嫉妬を感じたらそれを憧憬に変えたらいいのに。

「自分の方が相手よりも上」だなんて、鬼を心のどこかで飼っているから出来ないのでは?

---------
 

相手を貶めて自分より低い位置に持って来て優越感を感じるのなら、

そのステージではTOPでしょうけど、そのステージ自体が低過ぎて

他の誰もが興味を持たない場所になってしまってて

誰も寄り付かない場所に独りでお山の大将になりますけど、それは楽しいことなんですかね?

 

それが『勝負している』ことなんですかね?自分独りしか居ないのに?


---------
 

自分たちが素晴らしい民族や血や文化を引き継いで実践している者だとの自覚が在るのなら

他の民族や文化を引き合いに出して貶めたりしないで

「うん。私らは頑張ってこうやってみたら評価されたみたいだ。

君らがまた凄いことやって見せてくれるのを楽しみに待ってるよ」

と云う感覚を持つのが、

少なくとも生まれてからこの国の文化だけしか知らないで育った私の感性です。

---------

尚、『自分のことをしっかりやるので他人はどうでもいい』と云うのは
「自己中心的に利己的に他人を押し退ける理由」にはならないと考えています。

『他人に厳しく自分に極めて甘い』としか感じません。

「社会性・公共性」を声高に謳う人たち程、
公共物を自分の専有物だと思い違いしている人だと見受けられます。

必ずと言っていい程、詭弁にしか感じない独自のルールを武器に持って居て。

最初から「公共の場」とか「社交場」など、面倒なことになりそうな場所に行かずに、

自分自身で参加者を選び招待状を送りパーティー開く方がより良い結果を生みそうなものだと感じる。

「主催者が望んでいる人々は集まらず、略奪者みたいな輩に専有されている」
と、感じるシーンはそう云うことじゃないですか?

---------

所詮は他人事。
奪うだけ奪って他所にホームが在る人間の思考ですよね。

これを私は『田舎者・外人』って言ってます。

(外国人とは違います。異人種も指しません)

最終的には逃げ場を故郷に設定して旅先で無茶をやる者。
「負ける」ことを前提に生きているクセに安全装置だけは無いと不安になる様な
人生のリセットボタンを必要とするくだらない連中。

『田舎者』や『外人』を決定付けるのは出身の土地や国籍や血統や人種・肌の色じゃ無い。
「この場所でやっていくんだ」と云う決意を持っているかどうかだと思います。

あなたの『ホーム』はどこですか?
『アウェイ』の時だって自分のホームが在れば、相手にとっての『ホーム』を尊重出来ると思うんです。

敬意を感じず、侮ったみたいに「駆け引き」の有る交流が本当に心の底から大嫌いなんです。