国体法勉強会(第34回:承久の変)まとめ

 

本日は国体法勉強会を開きました。

 

あまり知られていませんが、承久の変の最初の戦いは、岐阜県の木曽川沿いで起きています。

各務原市には承久の変供養塔(前渡不動山)や、合戦説明図があります。

その後瀬田・宇治でも合戦となりました。

 

後鳥羽上皇は隠岐に御遷幸となりましたが、上皇の御遺勅を守り、800年近く、代々継がれて菩提を祀ってこられた水無瀬神宮には驚くばかりです。

 

話し合いでは、承久の変を経ても皇室が廃されなかったことに意義があるのではないかという意見や、幕府軍の人数が実際より多すぎるのではないかという意見、戦略や士気の重要性などの意見も出ました。

 

具体的に経過や歴史をたどることで、よりリアリティに迫ることができます。

 

まとめ

•1 承久の変は承久3年5月15日、後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣に始まり、6月5日美濃での決戦、13日と14日は勢多・宇治での激戦となるが官軍が敗北し、6月15日に院宣の撤回、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐へ御遷幸になり、仲恭天皇も後堀河天皇に譲位され、幕府が朝廷や西国への影響を増す契機となった戦いである。

•2 後鳥羽上皇は4歳で天皇に即位、19歳で退位されて上皇になり、新古今和歌集の編纂、世俗深浅秘抄など有職故実書の編纂など、和歌・管弦・蹴鞠・公事など多彩な才能をお持ちであり、また武芸にも優れ、西面の武士設置、熊野への行幸、御番鍛治など軍事面でも朝廷を強化し、治天の君として、将軍実朝との関係強化を通じ、朝幕のあり方を改め、王政復古をお考えになられた。

•3 将軍実朝の暗殺、後継将軍や所領、大内裏焼失などをめぐり、執権義時との確執が高まる状況下で、義時追討の院宣を下され、北条氏の追放を御決断になられた。しかしこれに対し、幕府側が情報を封じ、御家人を団結させ、京方に攻め上り大群で短期決戦を行う戦略に出たため、官軍の動員や士気・戦略などが賊軍にかなわず、敗北の悲運を味わった。関与した公卿・僧侶・武士らが大量に粛清され、皇位継承も変更され、後鳥羽上皇は19年間隠岐を出られず御年60歳でおかくれになられた。

•4 しかし後鳥羽上皇の御遺勅を忠臣が固く守り、代々社家を継ぎ、水無瀬宮にて菩提を弔う事800年近く、後鳥羽上皇の王政復古への御意思と御決断は、後世に多大な影響を与え、後醍醐天皇による建武中興、そして明治維新へとつながっている。

•5 北条氏により、承久の変の歴史が改変されてきたが、明治以降、見直しが進んでおり、後鳥羽上皇のすぐれた御事跡も明らかになっている。原因の研究も進み、供養塔も建立されている。承久の変は、王政復古のための戦いの先駆けであるといえる。