合理的な疑いを超える確信

 

裁判の判断基準は、証明責任を負っている側が、裁判官に合理的な疑いを超える程度の「確信」を抱かせることにあると言われます。

 

最高裁判所の判例では「通常人なら誰でも疑を差挾まない程度に真実らしいとの確信を得ること」(最高裁判所昭和23年8月5日判決・刑事事件)、「通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りる」(最高裁判所昭和50年10月24日判決・民事事件)という表現がされています。

 

なお、犯罪に対し死刑などの刑罰を科すかどうかを判断する刑事事件と、私人間の(主に)金銭的な請求を認めるかどうかを判断する民事事件では、判断基準が異なるという見解もありますが、先の裁判例では、同様の表現が使われています。

 

さてここで、「確信」を抱くかどうかというのが大きなポイントです。

人によって確信を抱くに至るかどうかは、もちろん個人差があります。

しかし、裁判で判断を下すには、客観的に分析を徹底した結果、この人を死刑にしても構わない、という確固たる自信が必要です。

 

日常的にも、人間を行動を促す原動力になるのが「確信」です。

裁判と関係ない分野の場合、厳格な証明まで要求されないから、ある程度見当がついたら、見切り発車でいくということもあるかもしれません。

 

しかし、それでも、他人を説得するには、自分自身が腑に落ちている、確信を持っていることが結局は必要だと思います。

合理的な疑いを超える程度の確信があるか、他の分野でも基準になりうるのではないでしょうか。