後鳥羽上皇と承久の変

 

後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)、時の執権北条義時追討の院宣を出しましたが、幕府軍に敗れ、隠岐島に流されてしまわれました。これが「承久の変」と言われます。

 

しかし、これは、計画は失敗しましたが、次の時代のために、大きな意味があったのだと言われます。

 

後鳥羽上皇は、「新古今和歌集」の編纂(古今和歌集300周年の年)、宮廷儀礼復活のための習礼・公事竪儀の実施、有職故実を記した「世俗深浅秘抄」の編纂、律令格式を補う「裁判至要抄」の編纂など、王政復古のために大変な尽力をなさいます。

 

また、同時に、後鳥羽上皇はご自身が武芸に優れるだけでなく、西面の武士を置かれ(近衛師団の増加)、御番鍛冶という刀剣の名工を宮中に集められ、関東の御家人を瀧口に取り立てられ、将軍源実朝とも緊密な関係を構築され、蹴鞠、競馬、狩り、水練、笠懸などにも尽力なさいました。

 

このように、朝廷の価値観を深め、軍事力を蓄え、日本の秩序をあるべき姿に戻そうとなさったことが強く伺えます。

この計画はこの時代には実現しませんでした。

 

しかしながら、その約100年後、後醍醐天皇は、後鳥羽上皇の諱(いみな)の「尊」の字を継がれ、倒幕を成し遂げられます(建武中興)。

 

さらに、その原動力は、647年の時を経て、明治維新の王政復古へと結実したと言われます。

後鳥羽上皇の御遺勅により祀られた水無瀬神宮は、明治6年(1873)神式に改められ、順徳上皇・土御門上皇を合祀、昭和14年(1939)には官幣大社に昇格します。

 

こうしてみますと、強い思いは、もしその時代に直ちに実現しなくとも、次の世代へ受け継がれると私は思います。

後鳥羽上皇と承久の変もそのように見ることができるのではないでしょうか。