日本は国難をどう乗り越えてきたか

 (やや長文です)


日本ほど平和を愛し、かつ長続きしている国はないと私は思います。

日本が建国された頃に存在していた他の国は、すべて、外国勢力の侵略を受けて植民地となったり、滅亡してしまいました。

日本も、長い歴史の中で、幾度かの国難に遭い、外国勢力の侵略を受けましたが、これに打ち勝ち、乗り越えてきました。

 

1 新羅・唐の侵略(白村江の戦)

もともと我が国民は、朝鮮半島南部にも居住していました。あの「魏志」にさえ、半島南部に倭人居住の記載があります。

10代崇神天皇の御代には任那(みまな)が設けられ、神功皇后は半島の百済・新羅・高句麗をも服属せしめられました。

しかし、後に新羅・高句麗は背き、百済・任那の勢力が弱まり、欽明天皇23年(562年)には、新羅によって任那が滅ぼされ、我が国民が残虐にも殺戮されました。

欽明天皇は大変心を痛められ、御遺詔(天皇のご遺言)にて、任那の再興を堅くお誓いになりました。

聖徳太子の時代まで、半島居住の国民を保護する任那の再興は日本の大きな政治課題でした。

ところが、斉明天皇6年には、日本に忠節を尽くしていた百済も、唐と新羅によって滅ぼされてしまいました。

この百済の王子と遺臣が、百済再興のため我が国に救いを求めてきました。

助けに来た者を見過ごせないとのことで、斉明天皇は百済救援の詔を出されました。

こうして我が国は、百済再興のため、唐・新羅の軍勢と戦いましたが、果たせませんでした。

これが天智天皇2年(663年)の白村江(はくすきのえ)の戦です。

こうして、我が国は朝鮮半島の国民を保護する拠点を失い、外国の侵略に対する国家の防衛を、九州や本州にて行わなければならなくなり、防人を置き、通信網を整え、その後健児の制、軍団と、防衛体制を整えてゆきました。

弘仁2年(811年)以降、新羅が我が国沿岸を侵攻したり、国内で反乱を起こすなど、本土も新羅の侵略を受けるに至りました。

しかしこれらを撃退し、最終的に、寛平6年、唐の情勢や歴史・国体に通じた菅原道真が遣唐使の廃止を奏上し(894年)、その後唐の滅亡(907年)、新羅の滅亡(935年)により、ようやく侵略の危難がいったん去りました。


 徐々に自信を取り戻した我が国は、かな文学『源氏物語』など王朝文化が花開き、死刑執行もない平安京全盛期の平和な時代となります。


2 元寇(元・南宋・高麗の連合軍の侵略)

鎌倉時代の後宇多天皇(亀山上皇)の御代には、元寇といって、元(モンゴル)・南宋(中国)・高麗(朝鮮)の3か国連合軍の侵略を受けました。1度目は文永の役(1274)、二度目は弘安の役(1281)です。

幕府の執権北条時宗は、承久の乱以降、初めて朝廷に外交意見を求めることとなり、亀山上皇も国難を排するため、人心を統一し、一心に祈願なさいました。

幕府が防衛軍を招集し、壱岐対馬の守備隊は全滅させられましたが、博多湾で、2度にわたり侵略を撃退することができました。

当時のモンゴル帝国は世界最大の帝国で、ヨーロッパ、ロシア、中東、東南アジアなども侵略の憂き目に遭っており、滅ぼされた国も数ある中で、日本は見事に国難を乗り越えたのでした。

 

3 スペイン・ポルトガルの侵略(戦国時代)

戦国時代、スペインとポルトガルが世界を二分し、アフリカ、アメリカ、中南米、中東、スリランカ、東南アジアを次々と植民地にしていきました。「大航海時代」と言われますが、これは西洋からみた視点であり、我々にしてみれば、「大侵略時代」だったわけです。現に、1570年にはスペインがマニラを征服し、フィリピンも植民地にされました。

スペインは、次いで明や日本を侵略するため、宣教師を派遣し(フランシスコ・ザビエル、1549年)、人身売買や植民地化を狙っていました。同じころ、ポルトガル人が種子島に漂着し(1543年)、鉄砲が日本に持ち込まれたことも有名です。

織田信長は、この国際情勢に気づいていたのではないでしょうか。時の日本は戦国時代。小国分裂状態では、スペインやポルトガルにたちまち征服されてしまいます。織田信長は、非常な危機感をもって迅速果敢に、天皇を中心に日本を統一し、豊臣秀吉が正親町天皇から関白の位を授かって天下統一を成し遂げ、スペイン人宣教師を追放して(1590年)、彼らの侵略の野望をくだきます。

なお、最後に、キリスト教徒が挙兵した島原の乱の際も、ポルトガル船が様子をうかがっており、これに気づいた幕府はポルトガル船の来航を禁止します(1638年)。

こうして天皇を中心に国を統一した織田信長・豊臣秀吉、そして徳川家康によって、スペイン・ポルトガルの侵略の危機を乗り越えます。

 

4 アメリカ・ロシア・イギリス・フランスの侵略(幕末)

江戸時代末期になると、ロシアやイギリスの船が出没するようになり、日本でも国防の必要性が問題になっていました。

嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航し、太平の眠りを覚まされます。
こうして、幕府だけではこの問題に対処しきれず、老中阿部正弘は、従来の慣例を自らやぶって朝廷の意見を聞き、庶民にまで外交上の意見を求めます。

さらには公武合体といって、朝廷と一体となってこの侵略の国難を乗り越える方策をとろうとします。しかし、大老井伊直弼が、安政5年(1858)、朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を締結し、安政の大獄で尊王攘夷の動きを封じ込めますが、暗殺されます。

薩摩や長州では、攘夷を決行し、自力で侵略に対抗しますが、下関戦争・薩英戦争で勝利に至りません。

外国の侵略に立ち向かうには、国全体を統一しなければならないことが分かり、王政復古・倒幕・明治維新へと至ります。

最終的に、幕府が締結した不平等条約を改正したのは、富国強兵により国力を増強し、憲法制定など近代法を整備し、明治37~38年の日露戦争(1904~05)に勝利し、その力を世界にとどろかせ、明治44年(1911)の関税自主権回復によって成し遂げます。

実に53年の時間をかけた、不平等条約の撤廃でした。

 

5 まとめ

このようにみますと、いつの時代も、我が国には、物部(もののふ)・侍(さむらい)・武士・軍人と呼ばれる、忠節を尽くし、勇敢に戦う人がいたことが分かります。

実際に現場で外国と戦う人の存在を否定しては、侵略を防ぐことができません。

今の日本国憲法は、軍隊や一切の戦力の存在を否定していますが、これは日本の長い歴史に反するものです。

また、外国の侵略に対抗するために、天皇を中心に国が一つにまとまらなければならない、という知恵を培ってきたことが分かります。

天皇は祭祀や祈りによって人心を統一し、征夷大将軍を任命し、数々の詔(みことのり)によって民を導いてきました。

今の日本国憲法は、天皇の公的な祭祀や、将軍の任命や統帥、詔の公的な効力などを一切否定しています。

しかし、これもまた、日本の長い歴史に反するものです。

私は、日本が世界でただ一つ、2000年以上、126代にわたり、外国の侵略を乗り越えてきた我が国の長い歴史を見るときに、こうした、戦う人の存在、天皇を中心に一つにまとまるあり方、といった我が国の特徴をよく考え、現代に生かさなければならないのではないかと思います。