国体法勉強会第32回・後花園天皇まとめ

 

本日は国体法勉強会で「後花園天皇」について学びました。

 

1 後花園天皇は第102代天皇として、崇光皇統から後小松上皇の猶子となりつつ、貞成親王に太上天皇宣下を行い、北朝内の皇統対立を解消し統合され、また伏見宮家を永世御所とする御叡慮によって、現在まで続く旧宮家の基を開かれたことで、皇位継承を安定化させる大きな役割を果たされた天皇でいらっしゃいます。
 

2 また後花園天皇は、論語・孝経・孟子、花園天皇「誡太子書」、実父貞成親王の「椿葉記」など、正統を維持する観点から、学問を本とし、徳を積むことを徹底して教育され、学問・和歌・絵画・管弦など諸芸に大変秀でた御方でした。また最後の勅撰集となる「新続古今和歌集」を編纂され、全国の書籍収集を構想され、美術にも通じていらっしゃいました。そして、自らの嫡子成仁親王(後土御門天皇)にも「御消息」により(その責任の重さから後土御門天皇も天皇を辞めたいとお思いになるくらい)大変厳しく学問を修めるよう誡められ、天皇の権威と責任を著しく高められました。
 

3 さらに後花園天皇は、正義の心を強く持たれ治罰綸旨も積極的に渙発なさる一方、庶民の生活を案じ、長禄・寛正の大飢饉の折には、般若心経を書写奉納され、将軍義政に対して漢詩をもって贅沢な御所造営を御諷諫なさいました。
 

4 このように、戦国乱世にあっても、天皇は、祖先の祭祀を絶やさず神祇を司り、学問を本とし、徳行をなし、学問文化諸芸の中心として、また民の幸せを祈る慈悲の心を持たれ、各勢力の対立を解消し統合をはかる御立場を形成されたことが、皇位を長く続く理由になったのではないかと思います。
 

5 特に、後花園天皇が極めつくそうとした、学問・芸能とは、単なる文字の上での学問ではないと考えられます。祖先たちが築き上げたあらゆる美しいもの、伝統・学問・芸能・歴史・文化の総体を、次の世代に継承したいという熱い思いが、その中心的存在たる天皇を(足利将軍と異なり)戦乱の世の中でも受け継いでゆきたいという人々の心情に訴えかけるものがあったのではないでしょうか。

 

6 後花園天皇の御叡慮、すなわち祖先の祭祀を絶やさぬはもちろんのこと、学問を本とされ諸芸に通じておられたこと、皇統の対立を解消して皇位継承を安定化させるために伏見宮家を永世御所とされたこと、徳を積み、民を思いやる慈悲の心をもって子孫を厳しく誡められたことから、現代に至るまで伏見宮家が正統として続いていることが、尊い御事蹟として歴史に刻まれているのではないかと思います。

 

(参考文献)

•辻善之助「修訂 皇室と日本精神」(大日本出版、昭和19年5月25日)

•岸田寛「乱世の天皇像―後花園天皇の場合―」「日本文学論究第37冊」(國學院大學国語国文学会、昭和52年11月15日)

•秦野裕介「乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで」(東京堂出版、令和2年7月30日)

•今谷明「後花園天皇と伏見宮家」救国シンクタンク編「皇位継承問題」(総合教育出版、令和5年12月1日)

•浅見雅男「もうひとつの天皇家 伏見宮」(ちくま文庫、令和2年4月10日)

•渡邊大門「戦国の貧乏天皇」(柏書房、平成24年11月10日)

•久水俊和「中世天皇葬礼史ー許されなかった“死”」(戎光祥出版、令和2年4月20日)