グローバリズムと邪説の害

 

「グローバリズム」は、人・物・金を国境を越え自由に移動させる「現象」だけではなく、一種の信仰・宗教ともいえる「精神性」を伴っています。

 

・国境をなくした方がよい

・国家を解体すべきだ

・伝統的価値観・習慣は破壊すべきだ

・SDGs(グローバルアジェンダ)礼賛

・LGBTQやマイノリティの積極的優遇

・大量移民を受け入れ多文化共生

 

ここでは、こうした考えを全て否定すべきと言いたいのではありません。

そうではなく、戦国時代に「キリスト教」の布教がスペイン・ポルトガル等による植民地侵略の手段として使われたように、上に述べたような「グローバリズム」の価値観の宣伝も、日本に対する経済的な侵略の一環として使われてしまう可能性があることに注意が必要だということです。

 

豊臣秀吉がキリスト教布教を禁止しバテレン追放令を出したのも、

・寺社の破壊

・領地の献上

・日本人を海外へ連行・売買

などの防止を理由にしたものでした。

 

ひるがえって現代でも、

・土地の外資買収が進行

・日本企業の外国人株主の増加、外国人役員の増加

・外国からの移民の受入れ

・外国人参政権

の動きが進んでいます。

 

精神的な下地を作られることで、国の意思決定権を乗っ取ろうとする動きがやりやすくなり、最後は経済力や武力を用いて、外国勢力の統治下に組み入れてゆく、これがかつて西洋諸国がアジアで行った植民地政策でした。

 

幕末の水戸学の思想家会沢正志斎「新論」では、次のように「邪説の害」が国防にとって致命的となることを論じています。

 

「民、すでに天威に畏敬悚服すれば、すなはち天を誣(し)ふるの邪説に誑(あざむ)かれず、幽明に歉然(けんぜん:不満足のさま)たるなければ、すなはち身後の禍福に眩されず。」

【私訳】民が、天を畏れ敬えば、外国の誤った教えにだまされず、死後の拠り所に満足すれば、死後の世界に惑わされることがなくなる。

 

「祀礼廃らば、すなはち天人隔絶して、民は易慢を生じ、游魂安きを得ずして、生者も身後を怵(おそ)れ、民に固志なく、冥福陰禍の説、これに由りて入る。幸を死後に徼(もと)めて、義を生前に忘れ、政令を避くること寇を避くるがごとく、異言を慕ふこと、慈母を慕ふがごとし。心、外に放たれて、内に主なければなり。身後の禍福は、目未だ嘗て観ざるところ、故に邪徒、民心の怵るるところに乗じて、これを恐嚇(きょうかく)するを得るも、また怪しむに足らざるなり。」
【私訳】祭祀が廃れれば、天と人が隔絶し、民は怠り侮る心を生じ、たましいも安心を得られず、生きる者は死後の世界を恐れ、確固たる心がないから、死後の禍福を説く教えが入ってくる。幸福を死後に求めて、生きて義を果たすことを忘れ、敵を避けるかのように法を避け、外国の教えを慕うことは優しい母親を慕うかのごとくである。心が外に向けられるのは、内に主がないからである。死後の世界は誰も見たことがなく、邪教の信徒が、民の恐怖に乗じて、脅すことができるのも不思議ではない。
 

会沢氏は「邪説の害」を防ぐには、長期的には、祭祀による教化が大切だと説きます。

 

日本人が内に確固たる信仰や価値観を持たなくなると、外国の思想に簡単に幻惑されてゆきます。そして、気づいたときには、精神面でも外国に降伏し、自国の意思決定権をも相手に譲り渡している、といったことが起きないよう、注意しなければなりません。