11月23日は忘れもしない、3年前に母が亡くなった日です。母は一生働き続けた人ですが、勤労感謝の日に亡くなるなんて・・・子供の頃から、自分の母(私にとっては祖母です)が病弱で、小学生の頃から兄弟5人を含めた家族8人分の賄いをしていたと聞きました。昭和20年代の戦後間もない頃ですから、食べたいものも満足に食べられず、汁ばかりの芋粥の芋は、働き手の兄の口に入り、汁をすすっていつもお腹をすかせていたとも聞きました。
兄弟の中で女一人ということもあって、勉強は後回し、家のことがとにかく優先順位だったようです。いつか美容師になって自分の店を持ちたいと思っていたのが、10代から20代の頃。そういえば、小さい頃私の髪の毛をいつもきれいに三つ編みにしていてくれました。
24歳で母は結婚するのですが、決して娘の私からみても幸せな結婚とは思えませんでした。嫁に嫁いだ先でも、とにかく嫁としての家事まかないから、畑仕事まで、私を身ごもって大きなお腹を抱えたときもずっと鍬を握っていたと聞きました。私の父は、お坊ちゃん気質の気の短い人で、母は本当に苦労したようです。
私にとっては、父との思い出はいつも戦いの日々でした。暴力を振るう父から母を守ること、何も言えない母の代わりに盾突いていたことばかりです。私にとっては母が喜ぶ顔を見るためだけに勉強を頑張ったようなものです。100点とれば、「由美子は、優秀やぁ~~、絶対に手に職つけなあかんでぇ~~。女一人でも生きていけるようにならなあかんでぇ~~」といつも言っていました。
学級委員になったり、朝日新聞に詩が何回か掲載されたり、絵画で金賞をとったり・・・とにかく喜んでくれることを何かしら考えたのでした。もともと幼い頃から、大きな病気ばかりして生死をさまよったり、いじめにあって登校拒否をしたりと、それでなくても苦労ばかりしている母にさらに追い討ちをかけていたように思います。そんなことがあって、3度目の転校後は、とにかく元気に、心配させないように「しっかり者」になるべく、気ままな父に一丁前に盾突くのは私の役目と思っていたのです。
そんな父が亡くなったとき、母が泣いていた姿、数日間で髪の毛が真っ白になってしまったことを考えると、母が父を大事に思っていたことで、娘にはわからない夫婦間の愛情があることにショックでした。
父が亡くなったとき、私は涙が出なくて、あまりにも自分が冷静で、母が元気になって立ち直れるのだろうか?ということだけが心配でした。父が亡くなったことで、私は突っ張っていた気持ちの糸が切れて、母から、家から離れたいと思って東京に出たのでした。
20歳の成人式の日でした。母は、家の門の前でいつまでも私のことを何も言わず見送っていました。東京での生活ぶりをいつも心配していましたが、何も言いませんでした。新劇の舞台公演にも何回か来てくれました。昨年、実家を片付けていたらそのときのパンフレットやチケットの半券が出てきて、大切にとっておいてくれた母の思いに触れて泣いてしまいました。
私が大阪に戻ってきたときの喜び、結婚が決まったときのはしゃぎよう、娘が生まれたときの幸せそうな母の顔をいっぱい思い出します。父との確執やわだかまりは、私が来年父の年齢に追いつくようになってようやく浄化できそうになって来ました。今でも覚えています。父の生前の最後の言葉は、「お母さんは、どこいったんや?」でした。私の言葉は「知らん!」という愛想のないものだったことが、後悔です。
父と母は、今、二人で和やかに過ごしているのでしょうか?67歳で逝ってしまった母のほうが姉さん女房になってしまいましたが、二人が微笑んでいることを期待します。働きすぎた母のことをいつも自分の娘に語るようにしています。父のことも少しずつ話せていけたらと思います。
私をこの世に送り出してくれた父と母にありがとう。二人の娘であることがいつも誇りと思えるようにがんばります。
母に会えなくなって3年という月日は、あっという間でした。