俳優人生で世界が広がった
1979年,東映の暴力戦士と言う映画で準主役デビュー。その後は順調にスター街道を歩んでいたが未来がみえなくなっていた。20代前半で良いスタートをきれたが、30代はどうするんだろか?漠然とした空だけが見えていた。
自分が求めるロールモデルがいなかった。撮影現場での楽しさとは別に何かが足りなかった。自問自答の日々が続いた。何かが足りない。何かが、、?
オリジナルの世界で勝負したい気持ちが日に日に強くなって行く。21才でデビューして各方面から期待と賞賛を受けていたが、身体の芯から震えてこなかった。燃え尽きるまで全力で走り続けたい。コピーではなく、本物の世界で勝負してみたい。若さとは情熱。この一瞬に全てを掛けて生きていたい。
昭和は敗戦の匂いがまだまだ濃く残っていた。白人社会に対する劣等感と憧れ。洋画、洋楽、ファッション、生活様式、全ては世界の覇者である🇺🇸アメリカ合衆国!
1986年羽田国際空港✈️から日本のパスポートで🇺🇸ハリウッドを目指した。
1998年成田国際空港✈️到着の時は🇺🇸のパスポートに変わっていた。
12年間で日本は大きく変わっていた。30代を🇺🇸ハリウッドで過ごした人間にとっては親近感が持てる異国のようだった。
ハリウッドには世界中の一番があつまってくる。世界の広さを目の当たりに感じた。身震いがした。これが本物達の世界だ。日々生きていた。これからの世の中は地球を国単位で考えたら、自分は日本と言う県出身で米国ハリウッドの首都で英語と言う標準語を話し日本語と言う方言を使う。
プロフェッショナルの仕事とは、依頼を受けたら時間内で要望に応える。そしてオリジナルの足跡を残しておくワビサビの世界である。しかし作品作りはどんなに時間が掛かっても妥協は出来ない。黒澤明の映画作りは作品作りだった。そして俳優は自分作りをしなければならない。
次のステップは作品作りだと思った。自分の歩んで来た世界観を詰め込み、後世に残るような作品作りをしたい。と強く思い日本に一時帰国した🗻
〜続く😎🎬🎥