[歴史上の人物を診る ADHDの可能性がある坂本龍馬]
(朝日新聞 2011年11月20日)
坂本龍馬(1835〜1867年)
筆者は整理整頓が下手で自宅も教授室も乱雑を極めている。
本稿の締め切りも含め、約束事は苦手である。
字は汚いし不注意ミスが多く辛抱がない。
子どものころ通信簿には「注意力散漫で落ち着きがない」と書かれ続け、
両親を心配させた。
しかし最近になって、これはもって生まれた性分で、注意欠陥・多動性障害
(ADHD)というものらしいと自覚した。
調べてみるとこの障害を疑われる人物には、レオナルド・ダ・ヴィンチ、
モーツァルト、ヴェルヌ、エジソン、アインシュタイン、ピカソ、ジョン・
レノンなど各界のエポックメーカーがずらりとあげられている。
(もちろんADHDだから画期的な人物になったわけではない)
そして日本人のこの候補には目下ドラマで人気の坂本龍馬がいる。
<いろいろな活動>
龍馬は1835(天保6)年、土佐藩郷士の次男として生まれた。
生家は祖父の代に郷士株を取得した商家(質屋)で、身分は低いが経済的には
恵まれていた。
しかし、幼年の龍馬は寝小便癖が直らず、泣き虫で勉学もできず、いじめに
あって塾を退学、姉の乙女に学芸を教えてもらっている。
ただ、剣術は得意で14歳より日根野弁治道場に入門し小栗流目録を得たのち、
江戸の千葉定吉道場に入門し、北辰一刀流の目録も得ている。
ペリー率いる黒船が来航し開国を迫る時代の大きな転機にあって、龍馬も
当初は攘夷思想に染まるが、武市半平太以下の「土佐勤王党」とは袂を
分かち、脱藩。
海軍力を持って外国に対抗する必要があると説く幕府軍艦奉行並・勝海舟に
心服し弟子になる。
海舟が神戸に海軍操練所を設立するとその塾頭を任され、操練所廃止後は
長崎に亀山社中(後の海援隊)を設立、薩摩藩名義で銃や蒸気船を調達して
長州に転売し、薩長同盟の基礎を築く。
しかし、龍馬自身は武力倒幕を望まず、大政奉還を柱とした船中八策を
後藤象二郎に提案、これが土佐の藩論となって、最後の将軍徳川慶喜に
大政奉還を認めさせることになる。
そしてその直後、1867(慶応3)年11月15日、京都河原町の近江屋で盟友
中岡慎太郎と共に暗殺される。
享年33。
<不可解さと魅力>
我々のイメージにある龍馬は多分に司馬遼太郎の小説に負うところが大きい。
現実の龍馬を知るには同時代人の回想に加え、本人の手紙が役に立つ。
幸い龍馬には130通を超える手紙が残されている。
初恋の人平井加尾に宛てた「一、高マチ袴、一、ブッサキ羽織、一、
宗十郎頭巾、外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候」という
勤王(脱藩)の誘いの手紙があるが、もらった当人は何のことか分かったの
だろうか。
姉・乙女や姪・春猪には「エヘンエヘン」など口語交じりの手紙を出す一方、
陸奥宗光や木戸孝允に宛てた手紙は書式を整えており、単純なおっちょこ
ちょいとは思えない(字は汚く誤字も多いが)。
「米国建国の父ワシントンの子孫は今何をしているか判らない」という海舟の
言葉から共和制の本質を直感、理解し、仇敵同士だった薩摩と長州の同盟を
斡旋、大政奉還後には旧徳川将軍家も取り込んだ諸大名による議会内閣を
構想したりと、時代の思想や幕藩体制にとらわれないユニークな発想と
構想力は、高い知能を裏付けるものであろう。
医学的には、優れた剣術家として頑健であり、33歳で横死しているため病気の
記録は少ない。
ただ、剣術では複数の流派で免許皆伝を得るなど過集中の傾向があるのに
対し、学塾は中退、恩師・海舟のとりなしと藩主・山内容堂の赦免にも
かかわらず脱藩を繰り返すなど、組織の秩序には馴染めなかったようである。
また遠慮がなく、人の話を聞かずよく居眠りしていたという同時代人の記録が
あることから、ADHDだった可能性はかなり高い。
日本の歴史を動かした偉人の一人がそうであったとしたら、ADHDを自認する
者にとっても、輝ける希望の星というべき人物である。
(早川 智 日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授)
http://www.asahi.com/health/rekishi/TKY201111190235.html