本シリーズでは、毎回必ず自分自身でも新作を発表しております。

そして、このシリーズで発表する新作は、常に音楽の概念を更新するような、新しい試み、提案を伴うものとなっていて、我ながらいつも「果たしてこれは音楽作品と呼べるものなのか?」という自問自答をしております。

しかし、AIが自動的に何でも作ってしまう時代における創作とは、自分自身すら想像できないような新しい世界に拡げていかなければ、完全にAIにクリエイターの仕事が取って代わられてしまいます。

「音楽」という概念の拡張は、そうした時代の創造行為にとって、不可欠な態度なのではないでしょうか。

 


 

陶楽三題「陶酔/鬱陶/陶芸」

 

まず題名の「陶楽」とは、「陶器による音楽」という意味で「陶楽」であることはもちろん、「陶器を楽しむ」という意味での「陶楽」でもあり、ダブルミーニングになっています。いわば、陶器による「遊び」です。

 

三つの楽章それぞれは「陶」の字を持つ二字熟語による副題を伴ってており、それらもまた、ダブルミーニングによって作品の内容を暗示します。

 


 

①「陶酔」

 

 今日、一般的な「陶酔」は、(アルコールによる酔いとは関係なく)うっとりと浸るような意味あいで使われる場合が多いと思いますが、本来の語源的には、実際にほろ酔い加減の状態を指します。

 ここでは、水を使った陶器の演奏を通じて、「陶酔」的な状態が、さらに「酔って」いきます。

 


 

②「鬱陶」

 

 「鬱陶」だけであれば、気分が塞ぎこんでいる、といった意味になりますが、「鬱陶しい」といった場合、払いのけたくなるような煩わしさや不快感、といった意味も含まれてきます。

 回転と急激な停止、あるいは、極端な強弱のコントラストが、そのような二つの意味合いを象徴します。

 


 

③「陶芸」

 

 文字通りの「陶芸」の意味はもちろん、ここでは、「陶器による芸」という意味も併せ持ちます。

 そもそも陶芸は、手わざであります。

 例えば、私がろくろの作業過程で歪んでしまった状態に陥ったとしても、師匠の手にかかれば、その状態を一瞬にして元に戻してしまいます。そういう技を見ていると、「手で土の状態を見ている」というのが最適なのではないかと思います。

 私には到底、そのような域には至れません。

 そこで、できあがった陶器に対して、「手で見る」という感覚を研ぎ澄ませることを実践してみたいと思います。

 


 

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