8月1日のリサイタル「川島素晴 plays... vol.2 “無音”」、後半は《4'33"》以後の「無音」作品の系譜を現在まで辿ります。解説連続投稿、10曲目の演目は、今回のための委嘱新作、ささきしおり《ユビキタス“S”》です。
《4'33"》以後の動向として、フルクサス、ヨーロッパの作品、ケージのその後の作品、日本における無音作品、現在の状況を踏まえた日本の新しい作品と並べ、委嘱新作に至りました。

 

・ささきしおり
 ユビキタス“S”(2020 / 委嘱新作初演)

 

ささきしおりは普段、「ドローイングサウンド」を軸に活動をしています。そもそも、筆記による音響を音楽と称して活動している時点でかなり異色ですが、その彼女に、敢えて無音の作品を、とのお題を出しました。

 

今回のチラシは、イヴ・クラインへのオマージュとして描かれた彼女の作品であり、このビジュアルイメージが、今回の新作の基になっています。


<チラシの原画>

 


 

ここで、作曲者本人のコメントを掲載します。

 


 

ジョン・ケージが《4’33”》で社会に一石を投じてから半世紀以上経過したいま、「無音」を軸に一体なにをするのか。

私がこれまで行ってきた「描線の音楽」とは、「”描く行為”とは”演奏行為”である」を起点に、「ドローイング」によって音楽を拡張していけるのではないかと考え行ってきたパフォーマンスを総称し名付けたものである。作品の方向性は「音を刻む」ものから徐々に「時間を刻む」ものに変化してきており、本作もまた「時間を刻む」タイプのものである。

「無音とは」
「音をきくとは」
そしてそれらを踏まえた今回の新作《ユビキタス”S”》、
イヴ・クラインへのオマージュとしての「ブルー」、
それらを、私のパフォーマンスの主軸である線を用いたビジュアルで描いてみたものが、チラシにあるドローイングスケッチである。

そこかしこ遍在する線に、水を垂らすことによって切り取られたフレームがあらわれ、その中が空っぽだと思えば、そこに無音の世界が広がる。
空っぽの世界と、線の張り巡らされた世界の境目は、溶け合い混ざり合っていて、きれいに境界線を引くことができない。
空っぽの空間に、よく見ると青色を剥ぎ取られた線の軌跡が浮かんでいる。自ら作り出したフレームに想定外のなにかが存在する、この軌跡がノイズ(噪音ではなく騒音としての)である。無音もノイズも、個々人が生み出した概念である。「遍在する Sound と Silence、そしてその狭間」を意味するのが題名であり、そのような思考のメモとしてこの絵が存在している。

突如社会にあらわれた「新しい生活様式」という言葉とオンラインなんちゃらたちの存在感が増す一方で、人間は物理的に存在する以上、空間とリアルな皮膚感覚を伴い続ける。
その事を忘れてはいけないし、忘れられないと思う。

 

松尾芭蕉 「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」

 

「切り取り」とその「配置」によって空間的な広がりとともに示される無音の概念に、300年以上も前になる偉人の皮膚感覚を想像しながら、現代にも脈々と受け継がれている無音の”侘び寂び”に、深く共感するものである。

 

ささきしおり

 


 

今回は、映像の中で川島が「描線の音楽」を実行していますが、その響きはほとんど環境音にかき消されています。そのような映像とともに、舞台上に展開する描線行為は、音ばかりか、視覚情報すら失われています。

 

<映像を撮影した後の情景>

 

 

「無音」と言いつつ、ここでは敢えて音響が再生されています。

しかしながら、それは、会場である旧東京音楽学校奏楽堂の環境音と同化してしまうことでしょう。

 

聴覚情報、視覚情報ともに、どこからどこまでが「描線行為」による「音」なのか。

はたまた、「無」なのか。

 

様々な思索が脳裏を巡る時間になると思います。

 


 

そして公演最後の演目は、川島自身の新作となります。