8月1日のリサイタル「川島素晴 plays... vol.2 “無音”」の前半は、ジョン・ケージの《4'33"》への道程を示す選曲になっています。
ここでは、《4'33"》以前の「無音」作品の系譜について述べるエントリーの第3弾として、上演曲目第3曲、イヴ・クラインによる《交響曲「単音−沈黙」》について述べます。

 


 

<上演第3曲>

 

・イヴ・クライン(1928-1962)
 交響曲「単音−沈黙」(1949)

 

インターナショナル・クライン・ブルー(IKB)という独自のブルーを開発し、その色一色による様々な作品を作ったことで知られるイヴ・クライン(Yves Klein, 1928–1962)。青の線のみで構成された今回のチラシのデザインは、クラインへのオマージュとして、後半に新作を発表する、ささきしおりが手がけたものです。

 

(クラインによるIKBを用いた作品の例)


 

(今回のチラシデザイン)

 

あまり知られていませんが、クラインは柔道をたしなみ、1952年に日本に滞在し、ヨーロッパ人として初めて4段を得てもいますので、日本人の感性にも通じる部分があるのではないかと思います。(この滞日時、「原爆の影」に触れたことが、後に人拓パフォーマンスによる『人体測定』シリーズにも影響を及ぼしました。)
 

1958年に実施した『生の物質状態における感性が、安定化された絵画的感性へと特化すること、空虚』展、通称「空虚展」なる展覧会は、会場にあるものを全て取り払った状態の展覧会であり、今回の「無音」のコンサート企画者としては強いシンパシーを感じます。

1957年に特許を取得したIKBで一世を風靡したクラインも、最初は模索から始まりました。モノクロームによる作品を始めた1948年当初は、青に限らず様々な単色の作品を発表していました。(その意味では、アルフォンス・アレーに半世紀以上、先を越されています。)

そのような時期に構想されたのが、《交響曲「単音ー沈黙」 / monotone-silence-symphony》です。
なお、作曲年については、1947年、1947〜48年、1949年と、様々な文献があります。(クライン自身の発言ですら二転三転しています。)いずれにせよジョン・ケージの《4'33"》(1952)以前の年代であることには違いありませんので、ここでは確実なものとして1949年という年代を採用しています。

しかしながら、これを実際に上演したのが、《4'33"》以前であったのかどうかというと、恐らく、そういった事実はなさそうです。なので、これを《4'33"》以前の作品と称することには異論があるかもしれません。
しかし、IKBによる人拓パフォーマンス(裸体の女性がIKBを全身に塗りたくり、紙に人拓をとったり、紙の上を転げたり、クラインが裸体を引きずったりして描く)の際に、このシンフォニーの実演を行っていたことは確かで、アレーの《葬送行進曲》が恐らく実演はなされなかったであろうことを考えると、シュールホフに続く、「実演歴のある無音作品」ということになるでしょう。
そのようなパフォーマンスとともに実演された様子がこちらです。

 

 

20分の持続音に続いて20分の沈黙、という指示だけがある「交響曲」ですが、持続音部分は2通りの解釈があり得て、上記の動画のように「単音=モノトーン」で行っているものもありますし、後年、クライン自身が書き残したスコアでは、コードのオーケストレーションになっていることがわかります。(この場合は D major ですね。)

 

 

コードによる上演も美しく、捨てがたいですが、今回の上演では、先の動画のような「モノトーン」にこだわります。

後半最初に、ラ・モンテ・ヤング(La Monte Young, 1935- )の《Composition  1960 #6》を上演しますが、これと同じシリーズの一貫で彼が1960年に発表した「完全5度」を延ばすだけの作品や、ジャチント・シェルシ(Giacinto Scelsi, 1905-1988)の《管弦楽のための一音による4つの小品》(1959)(各楽章が一つの音とその揺らぎをオーケストレーションだけの内容になっている)にも先行しているという点を強調するためにも、敢えて「モノトーン」で上演します。

つまり、本作は、「単音の持続」という意味でも、「無音」という意味でも、2つの意味において、先行作品として音楽史に記憶されるべきもの、ということになります。
 

アンサンブル東風の7名によるユニゾンの持続音と、それに続く「沈黙」をお楽しみ下さい。これを指定通り40分かけて「上演」する機会は、そうそうないと思います!

*そういうわけで、この作品は例外的に「無音」ではない部分を含みますが、ソーシャル・ディスタンスを考慮し且つ、扉を開放した状態での上演ですので、ご安心下さい。

 

<クライン自身による、本作に関する語録抄>

「音の部分は、聴き手が、沈黙の経験を満たされるものに変換するための準備をしている。この2部分は、可視と不可視の間のアーティキュレーションの、正確な置換となっている。単音は、絵画における単色と概念的に等価であり、それを音響化したものである。」


「この交響曲で私は、自分の人生がどうあるべきかを表現した。(中略)40分間のこの交響曲では、その始まりと終わりが引き伸ばされ、奪われ、めまいと、時間の外への憧れの感覚を生み出している。このように、その存在の中にあっても、この交響曲は存在しない。それは、存在した後に生まれもしないし、消滅することもないので、時間の現象学の外に存在している。しかし、私たちの意識的知覚の可能性の世界では、それは「沈黙ー聴こえる存在」である。」
 


 

そしていよいよ、ケージの《4'33"》へと至ります。

それについて(ならびに休憩中の内容について)は次の投稿をご覧下さい。