『俳優の仕事』第一部
第4章 想像力 7
[俳優に想像力が欠かせないのは創造するためばかりでなく、既に創造されやり尽くされたものを一新するためでもあるということだ。]
これができるかできないかで「代わりがいない」俳優になってくってことなのかな?
少し前にやった狂人のエチュードを更に掘り下げて、[「新しい状況に狙いを定め、心の欲求に耳を澄ませ、そして行動したまえ」]と、先生。
[想像の虚構はどのようなものであれ、正しい根拠にもとづき、しっかりと確立されたものでなければならない。想像力をかき立てるために自問する問い-
誰が、
いつ、
どこで、
なぜ、
何のために、
どのように
-は、我々が想像上の架空の生活のさらにいっそう明確な情景を作り出す助けとなる]
初心者の人は結構これを考えることをしない人が多いなって印象
いや多分私が出会った人がってだけでみんながみんなじゃないだろうし
私も考えもしなかった時期も…そこまで
これ結構先生たち繰り返し言ってることなんだけどなぁ…
ある意味基本的でお芝居においての一歩だよね、と個人的には思います
基礎練の発声と滑舌は基礎代謝くらいにしたいとこね、その後のお話…にできるようにしていきたいな
勿論、こっちが先にできる人もいるんだろうけど
[勿論その情景が、意識的に頭を働かせてこのように問わなくても、本能的に形成されることもままある。しかし、明確な想像のテーマを与えられたときでさえ、想像力はそのまま放っておいては積極的に働かないことを、君たち自身わかったはずだ。
明確なしっかり設定されたテーマをもたず、<一般的>に想像しても無駄なのだ。]
この<一般的>が二番煎じ三番煎じ、型になっちゃう側面なのかな
[とはいえ、理性によって虚構を作り出そうとすると、今言った自問の答えとして、想像の生活の生気のないイメージが我々の意識に生じることが非常に多い。それでは演劇には充分と言えない。]
つまりモノマネか
はるか昔からスタニスラフスキー先生も言ってたのね…
[演劇は、人間としての俳優が虚構の結果として本能的に自らの生活を生き始め、人間の自然の全てをあげて役に心身ともに没頭することを要求する。]
これが、『演技と演出のレッスン』で鴻上尚史先生がおっしゃっていた「演じることは考えることと感じること」なんじゃないかなー、と
そのためには
[『もしも私が創造した虚構が現実であったら、私はどうするだろうか?』という問を立てるのだ。]
まさに魔法の<もしも>
[我々俳優の自然の特性のお陰で、君たちはこの問いに行動で応えようとするだろう。]
行動できない人はきっと、そのことが理解できないからそれが芝居に反映されないんじゃないかな…と、ちょっと思う
ので、行動できる人になるため、日常生活から行動する人になるように意識的に行動してこう!私!!
それが曖昧でもよくて、大事なのは[その欲求を呼び起こし、我々が心身ともにそれを感じることなのだ。この感覚が虚構を確かなものにする。]
[形のない、肉体や実体を欠いた想像が、我々の肉体や実体、つまり身体の真の行動を反射的に呼び起こす力をもつようにすることが大切だ。この力が我々の心理操作術において大きな役割を果たす。]
[もし君たちが舞台上で、
自分が何者であり、
どこから、
何のために来たのか、
何が必要なのか、
ここからどこへ行くのか、
そこで何をするのか、といったことを知らずに、機械的に台詞をしゃべったり、何かをやったなら、君たちは想像力無しで行動しているのであり、君たちが舞台に立っている間は、それが短かろうと長かろうと、君たちにとって真実ではなく、君たちはネジを巻かれた機械、つまり自動人形として行動していたに他ならない。]
[想像力によって意のままに虚構できないで、どうして心を燃え立たせ、ゆさぶることができるだろう!]と、先生がおっしゃる
[想像力を発達させることに特別の注意を払いなさい。
これまでやってきた練習も含め、あらゆる方法で想像力を発達させなさい。
つまり想像力それ自体を鍛えるとともに、舞台上では何事も機械的、形式的には行わないことを原則として、間接的にも想像力を発達させるようにしなさい]
いくら考えてやっても、機械的にやるだけで「感じられなかったら」、だからお芝居としてみんな同じになってしまうのかなって
だから、言い方になってしまうと型になって、中身が無くなっていってしまう
それを、再確認した気持ち