『俳優の仕事』第一部
第3章
 行動。<もしも>、<与えられた状況> 4

[まず第1にこの言葉の素晴らしさはあらゆる創造を発動させるという点にある。<もしも>は俳優にとっての推進力、現実から唯一創造が成就する世界へとわれわれを導く推進力の役割を果たすのだ。]

[ささやかな<もしも>という言葉は、
もしも、
それだから、
そこで といった具合に実に一貫した考え、論理的な段階、様々な行動を引き起こすことがわかるね。]
これがあるとブレないってのもあるんだよね、きっと
私はまだここが足りないってのもあるかな

[更に<もしも>という言葉の性質とその特性を研究する上で留意しなければならないことは、いわば単層の<もしも>と多層の<もしも>が存在することだ。]

[複雑な戯曲ではもっと多くの<もしも>やその他ありとあらゆる<もしも>が組み合わさっていて、登場人物たちの色んな行動や行為を正当化する。これは単層の<もしも>でなく多層の<もしも>、つま多数の可能性、さらにそれを補う、互いに巧みにない合わされた虚構の数々なのだ。]

お芝居だけじゃなくて、マンガとか、それこそ創作の世界もそうだよね
色んな<もしも>の積み重ね

言い方はあれだけどフィクションはある種嘘の世界だからね

[さらに<もしも>という言葉が持つ神秘の力は、それが現実の事実、実際にあることではなく、<もしかしたら>ありうるかもしれないことしか語らない点にある。この言葉は何も断言しない。それは仮定し、解決すべき問題を提示するだけだ。そして俳優はそれき対処しようと努めるのだ]

だから、<もしも>を使って行動できるなら、そもそもお芝居が過剰な必要性も無いし、みんなが同じような芝居をするってことも無いはずなんじゃないかなぁ…

その<もしも>に真摯に、誠実に向き合うことは、お芝居に向き合うことにも繋がるんじゃないかなぁ、とちょっと思った

これに対して先生も、
<もしも>は提示したけど
幻覚を見ろとか感情を強制したりしたわけじゃなくて、そのリアクションって自然と生まれたものだよね
[君たち一人一人がおのずと<感じたこと>をそのまま役として生きるよう、みんなに完全な自由を与えたにすぎない]
って先生も言ってるし

[虚構の出来事を真実だと信じ込ませたのではなく、君たち自身が、そのような出来事が現実に起こりうることを自発的に認めたのだ]って

割とお芝居してる人、この前者をやろうとしてる人のが多んじゃあないかな…
わかんないけど、私が通うスクールとかでの印象だから初心者の人に多いのかなーって
だから、過剰になりやすいのかなって

私の役と重なる瞬間って「こうしたい」と役の欲求を考えるのが1番繋がりやすいんだけど、でもそれってやっぱり、<もしも>から生まれたものだよね

もしもこんなことがあったら、きっとこうするだろう、アテレコとかってそれが映像として決まってるけど、それにも意味の無い部分は無いし

<もしも>の特質には
[内面的にも外面的にも俳優の創造的能動性を引き出す牽引車であり、刺激剤であるわけだ。]
その<もしも>を[自問しただけで、たちまち君たちのなかに能動性が生まれてきたはずだ。与えられた問題に対する単純な答えでなく、俳優としての君たちの資質に応じて、君たちの中に行動への欲求が生まれたのだ。その力に押されて、君たちは自分の前に立ち現れた課題を処理し始めた
そのさい、君たちの行動を支配したのは、現実の生活さながらに、リアルな人間的な自己保存の感覚だった……。
<もしも>がはらむこの極めて重要な特性さ、創造と芸術の能動性と機動力を高めるというわれわれの芸術が目指す基本の一つに通じるものだ。]

だから芝居をする上で、もしもを出発点にするだけでも、恥ずかしいなんて考えてる暇無いんだよなぁ…私は、かもしれないけど
演技の先生も言ってたけど、「それは役の感情じゃない」わけだし

<もしも>こんな状況なら
<もしも>こんなことを言われたら

セリフから、その<もしも>を想像して、それを表現する

感情を表現する仕事なんだけど、決してそれっぽいいかにもコテコテなテンプレを売るわけじゃない

結構そこをそっちだと思っている人は多いのかなぁ…と、思う時がある