『俳優の仕事』第一部
第4章 想像力 3
[<我あり>というのは、我々の用語で、自分を虚構の環境の中心に置き、その環境の中にいる自分を感じ、想像の生活のただなかに、想像の事物の世界に存在し、自分自身の名において、自分の責任と良心に従って行動し始めるということを意味する]
[自然においてはすべてが一貫しており、論理的だ。(いくつかの例外をのぞいては)
想像の虚構もそういうものでなければならない。なんの論理的前提も無ければ愚かしい結論に向かうのは明らかで、]想像力がそれを拒み、行き止まりになってしまうことになるほどなー、と
[想像のための材料は君の日常生活から採られているので、全ては君が知っているものだ。そのため自分の記憶を探るのは簡単だった。しかし、知らない生活を想像するとしたら、どうだろう?
そうなると、別の形で想像力を働かせなければならなくなる。]
私これ結構「自分が見た作品から」採っちゃうかも
そしてそれを消化しきれずに、コピーみたいになっちゃうから、ちゃんと自分のなかに落とし込めてないというか…
だから余計に「二番煎じ」な芝居になりがちなのかも
[絶えず論理と一貫性を持ち続けることだけは忘れてはならない。
それによって君は、揺らぎやすい不安定な空想を揺るぎない安定した現実に近づけることができるようになるだろう。]
演じる役の行動に信念、ほどじゃなくても一貫性があるって確かに大事だよね
なんだろ、「らしさ」を外側からやりすぎると「っぽさ」で過剰になったり、テンプレートになるってことかな?
「ぽい」って言い方をする時も勿論あるけど、記号的な芝居もそういう言い方するよねってふと