主宰の小西です。
本番の期間中に、
「ああ、あの時の稽古がよかったんだな」
と、感じる瞬間に出くわす時がしばしばある。
それは、往々にしてダメ出しが擦り込めてる時か、潜在意識下に話し合いが響いている時なんだが、年間を通して考えると、その瞬間は合計すると9時間くらいに収まる。
たとえば3時間近い芝居一本に費やす最も有効的なダメ出しの時間の合計が9時間だと思うと、非常に効率よく感じるが、実際はと言えば189時間から210時間あまりを費やして稽古し、作品を創っている。
何に、これだけ時間がかかるか?
それは、理解、である。
僕は、役者に理解を求める。
作品、配役、演技、関係。
全ては理解の上に成り立って、連動すべきであり、そこから様々な可能性と結果が導き出される。
だから、稽古への慣れも含めて、時間をかけて理解を促す。
なぜなら、
理解こそが自発的になる最大の要素だからだ。
演劇は、サッカーに近く野球とは遠い集団性芸術で、演出家(監督)は、役者(選手)を一度舞台(ピッチ)に送り込んだら、基本的には手を下す事が出来にくい。
だからこそ、様々な話し合いと、プリンシプルを咀嚼して解説し、説明し、浸透させ相互理解を構築した上で本番(試合)を行う必要がある。
しかし、だとしても、全てが決まり通り運ぶわけではなく、むしろそこにはハプニングやミスが起きるわけだから、その時に、より適切に、より迅速に対処し、規定路線以上の結果を叩き出すには、理解の上に構築された自発的意識が大切になる。
僕は、それを養いたいのだ。
約束の先へ。
段取りを超えて。
人は人を想う。
ということを体現するには、まず、理解が重要であり、次にそれを応用できる自発心が必要になる。
役者という仕事は、個人事業主であり、兵隊ではないのだ。
残り50日。
理解を深めて行きつつ、その先にある自発的意識を僕は待っている。
ファンタジスタは配置されている。
後は、点を取るべき選手が活躍すればいいだけだ。
失点は問題ではない。
それを上回る得点をすればいい。
だから。
結果論よりも。
プロセスの苦難よりも。
自分たちが何を伝えたいのか理解して、飽くなきチャレンジに身を投じて欲しい。
その先に、美しい瞬間は訪れるのだから。
本番の期間中に、
「ああ、あの時の稽古がよかったんだな」
と、感じる瞬間に出くわす時がしばしばある。
それは、往々にしてダメ出しが擦り込めてる時か、潜在意識下に話し合いが響いている時なんだが、年間を通して考えると、その瞬間は合計すると9時間くらいに収まる。
たとえば3時間近い芝居一本に費やす最も有効的なダメ出しの時間の合計が9時間だと思うと、非常に効率よく感じるが、実際はと言えば189時間から210時間あまりを費やして稽古し、作品を創っている。
何に、これだけ時間がかかるか?
それは、理解、である。
僕は、役者に理解を求める。
作品、配役、演技、関係。
全ては理解の上に成り立って、連動すべきであり、そこから様々な可能性と結果が導き出される。
だから、稽古への慣れも含めて、時間をかけて理解を促す。
なぜなら、
理解こそが自発的になる最大の要素だからだ。
演劇は、サッカーに近く野球とは遠い集団性芸術で、演出家(監督)は、役者(選手)を一度舞台(ピッチ)に送り込んだら、基本的には手を下す事が出来にくい。
だからこそ、様々な話し合いと、プリンシプルを咀嚼して解説し、説明し、浸透させ相互理解を構築した上で本番(試合)を行う必要がある。
しかし、だとしても、全てが決まり通り運ぶわけではなく、むしろそこにはハプニングやミスが起きるわけだから、その時に、より適切に、より迅速に対処し、規定路線以上の結果を叩き出すには、理解の上に構築された自発的意識が大切になる。
僕は、それを養いたいのだ。
約束の先へ。
段取りを超えて。
人は人を想う。
ということを体現するには、まず、理解が重要であり、次にそれを応用できる自発心が必要になる。
役者という仕事は、個人事業主であり、兵隊ではないのだ。
残り50日。
理解を深めて行きつつ、その先にある自発的意識を僕は待っている。
ファンタジスタは配置されている。
後は、点を取るべき選手が活躍すればいいだけだ。
失点は問題ではない。
それを上回る得点をすればいい。
だから。
結果論よりも。
プロセスの苦難よりも。
自分たちが何を伝えたいのか理解して、飽くなきチャレンジに身を投じて欲しい。
その先に、美しい瞬間は訪れるのだから。