こにーです。
聞かれたら、答える。
何故、時は止まらないか?
僕はこう考える。
生物の魂は、成長もせず変化もしない。
成長がなく変化がなければ、時は永遠でなければならない。
なぜなら、成長し変化するものは、滅びなくてはならないからだ。これを宿命と呼ぶ。
魂は変化も成長もないかわりに、経験を蓄積する。経験の媒体となるものは基本的に肉体である。
肉体は、だからこそ仮のモノであり、成長し変化し滅びる。
魂はそのサイクルを永遠という時間の中で輪廻という概念のもとに繰り返し繰り返し行われる。
時が止まらないのは、時が流れているものではなく、単に永遠という概念の中を遊泳しているからである。時を直線に例えたがるのは人間のエゴであり都合でしかない。
では時間は遡れるはずだ、と人は言う。
時間は遡れる。
ただし、肉体は時間を逆行することは出来ない。何故なら肉体を持つものは成長し変化し滅びなくてはならないからだ。では、何が時間を逆行出来るのか?
それは魂だ。
例えば僕が今死ぬとする。僕の肉体は成長し、変化し、滅する。魂は僕を媒体とした経験を蓄積した後、何処へ行くか?
普通の人間は「いくばくかの未来」と答える。それは違う。さっきも話したように魂は永遠という時間の概念を遊泳している。だから今死んだ僕が生まれ変わるのは、江戸時代の武士かもしれないし、中世の貴婦人かもしれないし、100万年後の猿かもしれない。
そこにこそ、時間の概念があり、永遠の概念があるのだ。時間が直線だということこそ、ぼくは矛盾を感じる。
また、魂の概念の中では肉体を持つ時間こそ裏側の世界であり、肉体を持たない魂の遊泳こそが表側の世界なのだ。
表側の世界はその永遠性のためにあまりに美しく眩しい、肉体を持つ裏側の世界はあまりにも醜く暗い。
だからこそ、人は裏側の世界にあって美しいものを希求し、魂の在り方に近付けようとするのだ。それは思考というものを越えた本能として美しいもの=魂という定義をどの生物も与えられているからだ。
しかし、その美しいものを手に入れるには争いや労働や、野心のようなおよそ美しいものとは程遠い作業が必要不可欠であり、この矛盾との闘いこそが人間の魂に経験として蓄積されるのだ。
だから、魂の時間概念の中ではその表側の世界こそ故郷であり、ノスタルジはそのために生まれる。だから生物は誕生したその瞬間から美しい故郷へ帰るノスタルジを心に抱いて生まれ、なぜ生物は死すために生まれ堕ちるのかという疑問を人生における最大の矛盾として内包して生きるのだ。
また矛盾に立ち向かうものが心であり、心は時に魂の代弁者であり魂の使者であり、水先案内なのだ
。
そして死体が美しいのは、あるほんの一瞬、死体は成長もせず変化もせず、魂に近い状態に置かれる時間があるからで、それを保存するために土葬にしたり、あるいはその一瞬を心に留めるためにむしろ肉体を火葬して意図的に無くしたりするのだ。
不老不死が悲しく罪なのは魂が解放されることなく人間の定義における直線の時間概念を強制的に生きるようにされたものだからだ。
魂は肉体の消滅によってのみ、新しい経験を蓄積し、永遠の時間の中を遊泳出来るのだ。
さて。
ご期待に添えてますかどうか。
聞かれたら、答える。
何故、時は止まらないか?
僕はこう考える。
生物の魂は、成長もせず変化もしない。
成長がなく変化がなければ、時は永遠でなければならない。
なぜなら、成長し変化するものは、滅びなくてはならないからだ。これを宿命と呼ぶ。
魂は変化も成長もないかわりに、経験を蓄積する。経験の媒体となるものは基本的に肉体である。
肉体は、だからこそ仮のモノであり、成長し変化し滅びる。
魂はそのサイクルを永遠という時間の中で輪廻という概念のもとに繰り返し繰り返し行われる。
時が止まらないのは、時が流れているものではなく、単に永遠という概念の中を遊泳しているからである。時を直線に例えたがるのは人間のエゴであり都合でしかない。
では時間は遡れるはずだ、と人は言う。
時間は遡れる。
ただし、肉体は時間を逆行することは出来ない。何故なら肉体を持つものは成長し変化し滅びなくてはならないからだ。では、何が時間を逆行出来るのか?
それは魂だ。
例えば僕が今死ぬとする。僕の肉体は成長し、変化し、滅する。魂は僕を媒体とした経験を蓄積した後、何処へ行くか?
普通の人間は「いくばくかの未来」と答える。それは違う。さっきも話したように魂は永遠という時間の概念を遊泳している。だから今死んだ僕が生まれ変わるのは、江戸時代の武士かもしれないし、中世の貴婦人かもしれないし、100万年後の猿かもしれない。
そこにこそ、時間の概念があり、永遠の概念があるのだ。時間が直線だということこそ、ぼくは矛盾を感じる。
また、魂の概念の中では肉体を持つ時間こそ裏側の世界であり、肉体を持たない魂の遊泳こそが表側の世界なのだ。
表側の世界はその永遠性のためにあまりに美しく眩しい、肉体を持つ裏側の世界はあまりにも醜く暗い。
だからこそ、人は裏側の世界にあって美しいものを希求し、魂の在り方に近付けようとするのだ。それは思考というものを越えた本能として美しいもの=魂という定義をどの生物も与えられているからだ。
しかし、その美しいものを手に入れるには争いや労働や、野心のようなおよそ美しいものとは程遠い作業が必要不可欠であり、この矛盾との闘いこそが人間の魂に経験として蓄積されるのだ。
だから、魂の時間概念の中ではその表側の世界こそ故郷であり、ノスタルジはそのために生まれる。だから生物は誕生したその瞬間から美しい故郷へ帰るノスタルジを心に抱いて生まれ、なぜ生物は死すために生まれ堕ちるのかという疑問を人生における最大の矛盾として内包して生きるのだ。
また矛盾に立ち向かうものが心であり、心は時に魂の代弁者であり魂の使者であり、水先案内なのだ
。
そして死体が美しいのは、あるほんの一瞬、死体は成長もせず変化もせず、魂に近い状態に置かれる時間があるからで、それを保存するために土葬にしたり、あるいはその一瞬を心に留めるためにむしろ肉体を火葬して意図的に無くしたりするのだ。
不老不死が悲しく罪なのは魂が解放されることなく人間の定義における直線の時間概念を強制的に生きるようにされたものだからだ。
魂は肉体の消滅によってのみ、新しい経験を蓄積し、永遠の時間の中を遊泳出来るのだ。
さて。
ご期待に添えてますかどうか。