人はそれぞれ、自分の人生の様々な場面でそのときに応じた物語を記憶している。それらを記憶するための、また思い出すためのルーツは時に何らかの音楽であったり、食べた物であったり、お酒であったりする。その物語を思い出すとき、それらの要素は鮮明にその物語を彩り、或いは全く違う場面の中でその要素にふれるとたちまちその記憶は鮮やかな物語として胸の奥の大切な何かを打つ。
人間の記憶のおよそ60%は「匂い」に由来するものだという。だとしたら、ある種のワインの持つ「匂い」は人間の心と頭に鮮明な記憶を残すに違いない。そう、それは僕が今でも「ブランド・モルジェ」を飲めない理由としてはあまりにも正確であまりにも容赦ないものだということが証明している。僕は、あの夜以来「ブランド・モルジェ」をまだ一度も飲んでいない。そこには僕だけにしか感じることの出来ない痛みがある。悲しみがある。いや、それはもしかしたら単に先入観なのかもしれない。本当はあのワインを一口飲むことで記憶は全て美しい物となり新しい物語のための第一歩となるかもしれない。けれど僕の心は、今でもまだそんな風には考えることが出来ない。その閉ざされた思いが、別れた妻を傷つけ僕を傷つけた。そのことは明白だ。そして、僕は今また、誰かの物語を目の前にしている。僕はマルティナと彼女のお父さんとの間にある物語の力になることは出来るだろうか?この何年もの間ずっと「物語」からに逃げまわってきた僕は、彼女に何か適切な言葉をかけてあげることが可能だろうか?僕の胸のうちはいつになく不安と焦燥にかられていた。リビングの固い緊張感はマルティナだけが発したものではなかったのだ。
大きなマグカップになみなみとコーヒーを入れてマルティナが戻ってきた。彼女は僕の様子を気にする風でもなく僕のとなりに腰をおろした。そして黙ったままでコーヒーに口をつけたあとで、大きなため息をついた。それはまるで目の前に置かれたバースデー・ケーキのろうそくを消すような大きなため息で僕は思わずはっとして彼女の顔を覗き込んだ。
「考え事でもしてるの?顔色が良くないわよ。」
「ああ。何でもないんだ。ちょっとボーっとしてた。」
「そう。ならいいんだけど。」
僕は何気なくマグカップを手にとり、コーヒーに口をつけた。香ばしい柔らかな香りが僕の鼻腔の奥をくすぐるのが分かった。美味しいコーヒーだった。洗練された柔らかさと、特有のエレガンスがそこにはあった。僕はゆっくりとマグカップをテーブルに置いた。
「コーヒーを入れるのが上手だね。」
「そうかしら?ワタシね、サイフォンもドリップもどっちも出来るんだけど、サイフォンってあんまり好きじゃないの。豆の持ってる優しさが損なわれてしまう気がするから。だから、うちではいつも自分でドリップして飲むの。意外に上手でしょ?」
「そうだね、おどろいたよ。でも…。」
その時だった。僕はゆっくりとコーヒーカップに手を伸ばし、その取っ手をつかもうとしていた。そして驚いた。
「ねぇ、このマグカップって?」
「え?かわいいでしょ。ムーミンって言うのよ。知ってる?」
僕はあんまり驚いたのでマルティナになんて言葉を返していいものか分からなかった。僕のマグカップには、小川にかけられた橋に腰掛けたスナフキンとその傍らに立つムーミンが描かれていた。
人間の記憶のおよそ60%は「匂い」に由来するものだという。だとしたら、ある種のワインの持つ「匂い」は人間の心と頭に鮮明な記憶を残すに違いない。そう、それは僕が今でも「ブランド・モルジェ」を飲めない理由としてはあまりにも正確であまりにも容赦ないものだということが証明している。僕は、あの夜以来「ブランド・モルジェ」をまだ一度も飲んでいない。そこには僕だけにしか感じることの出来ない痛みがある。悲しみがある。いや、それはもしかしたら単に先入観なのかもしれない。本当はあのワインを一口飲むことで記憶は全て美しい物となり新しい物語のための第一歩となるかもしれない。けれど僕の心は、今でもまだそんな風には考えることが出来ない。その閉ざされた思いが、別れた妻を傷つけ僕を傷つけた。そのことは明白だ。そして、僕は今また、誰かの物語を目の前にしている。僕はマルティナと彼女のお父さんとの間にある物語の力になることは出来るだろうか?この何年もの間ずっと「物語」からに逃げまわってきた僕は、彼女に何か適切な言葉をかけてあげることが可能だろうか?僕の胸のうちはいつになく不安と焦燥にかられていた。リビングの固い緊張感はマルティナだけが発したものではなかったのだ。
大きなマグカップになみなみとコーヒーを入れてマルティナが戻ってきた。彼女は僕の様子を気にする風でもなく僕のとなりに腰をおろした。そして黙ったままでコーヒーに口をつけたあとで、大きなため息をついた。それはまるで目の前に置かれたバースデー・ケーキのろうそくを消すような大きなため息で僕は思わずはっとして彼女の顔を覗き込んだ。
「考え事でもしてるの?顔色が良くないわよ。」
「ああ。何でもないんだ。ちょっとボーっとしてた。」
「そう。ならいいんだけど。」
僕は何気なくマグカップを手にとり、コーヒーに口をつけた。香ばしい柔らかな香りが僕の鼻腔の奥をくすぐるのが分かった。美味しいコーヒーだった。洗練された柔らかさと、特有のエレガンスがそこにはあった。僕はゆっくりとマグカップをテーブルに置いた。
「コーヒーを入れるのが上手だね。」
「そうかしら?ワタシね、サイフォンもドリップもどっちも出来るんだけど、サイフォンってあんまり好きじゃないの。豆の持ってる優しさが損なわれてしまう気がするから。だから、うちではいつも自分でドリップして飲むの。意外に上手でしょ?」
「そうだね、おどろいたよ。でも…。」
その時だった。僕はゆっくりとコーヒーカップに手を伸ばし、その取っ手をつかもうとしていた。そして驚いた。
「ねぇ、このマグカップって?」
「え?かわいいでしょ。ムーミンって言うのよ。知ってる?」
僕はあんまり驚いたのでマルティナになんて言葉を返していいものか分からなかった。僕のマグカップには、小川にかけられた橋に腰掛けたスナフキンとその傍らに立つムーミンが描かれていた。