食事のほとんどには京野菜が使われていて、その新鮮さや、味といったら東京で食べる野菜とは比べものにならないくらいおいしかった。僕らは同じ内容のコースを注文し、ブランド・モルジェを飲んだが、野菜の甘みやほろ苦さ、みずみずしさにワインはよくあっていた。繊細さ、酸の美しさ、そのどれもが料理とワインの双方を引き立てた。
「このワイン、こんなに美味しかったかしら?」
「そうだね。僕も今それを考えてたんだ。多分、このコースには、たくさんの京野菜が使われていて、その野菜の様々な旨味に、ブランド・モルジェはとてもよく合うんだよ。」
「ふーん。なるほどなるほど。でも、あなたいつの間にそんなにワインと料理に詳しくなったの?」
「…。わからないな。最近、食事の度にいろいろ思う。言葉が浮かぶって言う方が正しいかな。」
「へー。ねぇ、向いてるんじゃないの?ソムリエに」
「冗談よせよ。そりゃ無理だよ。ブランド・モルジェみたいに何度も飲めばいろいろ思い付くってだけだよ。」
「そっかぁ。」
僕らはそう言って、食事をしながら今まで飲んだいろんなワインについて話をした。それほどたくさんの種類を飲んだわけじゃなかったけど、その1本1本には、それぞれの思い出があり、物語があった。
「ねぇ、私が死んだらあなたにとってブランド・モルジェは私との思い出になる?」
「千佳子!」
「怒らないでね。聞いておきたいの。このワインを飲む度、私の事を思い出す?」
「思い出すよ。きっと。たくさんの君を。少し、悲しいけど。」
その後で、千佳子は小さな声でポツリと
「私以外の誰とも飲まないで。」
「え?」
「って言ったら困る?」
僕は静かにテーブル越しに彼女の手を握った。
「約束する。君以外の誰とも飲まないよ。だからよそう、そんな話し。」
彼女はコクリと頷いて、ごめんね、と言った。

 食事が済むと僕たちは鴨川の河川敷を歩いた。

夜の鴨川には、たくさんの若いカップルが座って、語り合い、それぞれの恋を唄っていた。すぐ側のベンチに、ギターを抱えた少年が座っていて、一心不乱にギターを奏で歌を歌っていた。千佳子はその少年の前に立ち止まり彼の歌を聞いていた。

  明日の事を想う前に
 今、君を想うよ
 昨日も実はそうしたんだ
 君には言わなかったけど
 君といる今日だけが
 僕にとっては真実
 君のいる今日だけが
  僕にとって現実

 だから、未来のことよりも
 今、手をつなごうよ
 今、手をつなごう

 好きだよって言えるほど
 僕はまだ大人じゃないけど
 大人たちにはわからないくらい
 君を好きだから
  今日はまだ、もう少し残ってるから-

 僕の手を握る千佳子の手が震えていた。泣いてるのかもしれない。
鴨川はすっかり夜の闇に紛れていて、そのせせらぎがギターの音に混じって聞こえた

 今日は、まだ少し残ってる。僕は千佳子の手を強く握り返した。

翌朝、僕たちは頑張って早起きをして京都散策をすることにした。
まず、バスで銀閣寺道まで行き、哲学の道を歩いた。桜の咲くころは大勢の人で賑わうであろうその道は夏の盛りを前に見事な葉桜を見せていた。その桜の木を左手に見ながら哲学の道を南禅寺まで抜ける。途中立ち寄った喫茶店で二人共、持参したTシャツに着替えた。夏の京都は蒸し暑く、ほんの1キロも歩くとTシャツはびしょ濡れだった。
「すごい暑さね。」
喫茶店を出ると再び物凄い熱気が僕たちを包んだ。
「そうだね。お花見の頃以外は哲学の道を歩く人も少ないんだろうね、きっと。」
「桜の咲く頃かぁ」
照り付ける日差しの中で、千佳子ははかなく笑っていた。僕の胸は感じたことのないような力で締め付けられていた。
「千佳子…。」
「ん?」
「いや。なんでもない。」
「あたしね、桜が咲くまで生きていたい。あの枝垂れ桜が咲いて、家の窓からお花見したいの。」
千佳子はとても楽しそうにそう言った。