我がココロのチェーホフ。

連載するには難しいかな。
ま。
いいや。

チェーホフの戯曲はほとんど全てが『愛』をテーマにしている。恋じゃなくて愛。

目の前に在る物を愛し。
失った物を愛し。
省みるなにかを愛し。
まだみぬ未来を愛する。

一見、普遍に見える。
ホントに?

チェーホフは迷う事なく愛する。自身がオリガを愛し、ロシアを愛し、文学を愛したように。
迷う事なく愛することは滑稽でありひたむきであり健気であり、快活である。

愛は絶望から生まれる。
いや、絶望の淵に一片の光として現れる。
だからチェーホフの人物は絶望している。

叶わぬ愛に。
届かぬ愛に。
愛を愛するがゆえに。

絶望は人間の本質である。
人間は生まれたその日から、死という絶望へと歩いている。
もし、仮に、それが真実だとしたら。
絶望までの放物線の途中で人間が望むものは『愛』だ。
愛を手に入れるために『夢』は語られる。夢がないから人間は絶望する。


だからチェーホフは絶望している。
失われてしまった夢のために。
愛のための夢さえ無くした人のために。
夢が夢でしかないために。

絶望の淵に愛は一片の光として現れる。
その先はなにか。
未来である。
未来は夢とは違う。

現在に絶望するのは夢を演じるヒーローが不在だからである。
未来にヒーローは存在する。
そのヒーローは現在のヒールである。
これをアイロニィと呼ぶ。
チェーホフはそのアイロニィを誰よりも愛する。

未来に夢を託す。
現在は失われた夢と共に生きる。
ヒールは存在する。
ヒールが奪い尽くしたその先に未来はあり、それは夢に酷似している、が違う。
未来においてヒールはヒーローになる。
失われたものは、時間という曖昧な概念の中で熟成され、慈しみを持って愛でられ、美化され、愛するべき偉大な過去となる。帝政ロシアもまたしかり。

チェーホフは今現在を愛する。
失われた偉大な過去と、必ず訪れる光の未来のはざまで、もっともアイロニィに充ちた今を。
そして。
今を愛することは、生を愛することだとしている。
人は生き、喜々として生きる。
愛や夢に囚われず、ただやみくもに生きる。

チェーホフはそれを愛する。

自分の命を慈しみ、死を見、夢に翻弄された彼だからこそ、ただ生きる喜びを表現する。

そんなチェーホフを。
世界中が愛する。

長い長い冬の国の。
温かな物語とともに。