備忘録 「正しい」ということ、「事実の蓄積」ということ | いつものように

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I start from December 8, 2011

新型コロナウィルスワクチンの全ての犠牲者に、
心からお悔やみ申し上げます。

 

山本一太群馬県知事のブログを拝見して。

 

「正しい」と信じること、それはどこまで客観的にいえるのかという検証が必須となるように感じる今日この頃。。

 

さて、「正しい」とか、信じるとか、言う前に、「事実」を「知るということ」について

 

「接種者の方が非接種者よりウイルス量が多い」という事実についての新田博士のポストの情報

(ポストの日付:2024年1月15日)

ポストのURL:https://twitter.com/takenitta/status/1746830700735852717

引用元ポストのURL:https://twitter.com/takenitta/status/1593643185158266881

 

査読にかかる期間、そして、一般の人にわかりやすく情報がX(旧Twitter)のポストに掲載されるまでの時間。

 

データサイエンスによる政策判断といっても、そのデータが「科学は修正を受ける」というものであるため、どこまでデータの裏付けのようなことを行政の専門家がしているのか否か。

 

群馬県政でいうなら健康福祉部や県にアドバイスする何某かの研究機関などの専門家の連携の仕方から程度、情報共有の仕組などに「改善点」が常に存在し続けていると感じます。

 

産婦人科学会と海外の論文の変遷についての話題(動画)のURL:

ポストのURL:https://twitter.com/fseiichizb4/status/1750181800675246387

 

日本の都道府県のどこにでもいえるかもしれないことは、行政のトップが「正しい」と信じたことの根拠の土台となる情報が「きちんとしているのか否か」ということの確認が必須になっているような感じでしょうか。

 

国内外の専門家の情報の流れをきちんと行政として把握しているのか否か、そのような仕組みが整備されているのか否か。

 

なかなか、法学部卒などのように自然科学の履修科目が大学や大学院にはないとき、必要に応じて「お勉強をしていく」にしても、バランスよく博識になっていかないと「井戸端の物知り博士」にすら専門知識の質において追いつかずに知識の質と量において劣りかねることになりかねないリスクがあるようにも。

 

そして、行政のトップが「正しい」と信じたことの検証が「選挙」できちんと検証できるようになっているのか否か。

 

今後も、新型コロナワクチンのリスクについての「事実の積み重ね」というものも、どんどん、薬害被害者さん達の病理解剖による証拠や査読済み論文等その他で積み重ねられていくのでしょう。

 

そして、やはり、「いつ知ったのか、いつから知るべきだったのか。そして、これからどうしていくのか。」ということは大切と感じます。過去ときちんと向き合わない人達は、同じ間違いを繰り返す危険性すら感じます。

 

もちろん、万が一にもあってはいけないのですが、もしかしたら、ひょっとして、行政において「黙秘権」の大切さを身に染みて感じる人がいたとき、それは「認識」レベルなのか、「認容レベル」なのかにより、「自己に不利益な供述」の意味内容が変わると思われます。そのとき、行政のトップが「正しい」と信じたことの対象が真実かつ実質的に具体的に県民市民の法益を守ることなのか否か。もしも、行政に携わる人達が「正しい」と信じたがゆえに説明が乏しくなるのであれば、説明不足となる説明の説明しなければいけなかった内容如何によっては、「黙秘権行使」というのとあまり変わらず、説明の「拒絶」をしているのとあまり変わらない結果をもたらすように感じます。

 

備考:「正しい」ということについて

 

 

選挙できちんと説明をするためには、いろいろな情報の開示を伴うことも考えられるので、どのように情報を収集し検証し公開できるのかも、ある意味、マネジメント能力の程度の問題ともいえなくもないと思います。

 

 

なかなか、現実には厳しく難しいお話とは思うけれど、一つ一つ丁寧に考え続けていくことが大切かなと。

 

 

念のために注意書き。

風評被害はいけません。

 

事なかれ。

 

 

追記:

わたくしのブログ記事の中の「正しい」を「県民のためになる」に置き換えて読んでも意味内容は大きく変わらない。

山本一太群馬県知事のブログの中の記載にある『「県民のためになる」(=正しい)と信じること』は、事実と異なる場合をも想定して、そのようなデータが変更され当初とは異なる結果をもたらす場合の当時の政治判断さえも、その当時は「県民のためになる」(=正しい)と信じることもあるのか否かはわかりかねます。もしかすると、政治判断の幅の問題なのかもしれませんね。

ポジティブな言葉を好んで、ネガティブ系の言葉を忌み嫌うがゆえの「表現方法」と思考に基づく「政治判断」というのがあるのか否か。